漢字の現在

第291回 銭湯の漢字

筆者:
2016年3月28日

家の風呂が古くなったので、少しだけわがままを言って工事を入れた。4日間は内風呂が使えなくなる。一番寒い時期だが仕方がない、次男を連れて完全防寒の格好をして夜に銭湯に通うことにした。子供のころ、この辺りに日曜ごとに来ては、昼間に祖母に耳の裏まで洗ってもらった、あの広々とした銭湯は、引越を経たためさすがに遠くなってしまった。

初日に行った近所の一軒目は、初めての所だが、雰囲気がすこし薄暗い。定番のケロリンの桶。曇ったガラスに、「一二三」と母が指で書いて漢字を教えてくれた(すでに何となく見覚えはあったような記憶もある)ので、私がピンと来てじゃあ4は「一を縦に4本」だね、と幼い日に間違えて書いた漢字の思い出話を、次男に語ってみた。私が最初に書いた漢字が誤字だったのだ(のちに古字と暗合していたことを知る)。

次の日は、前に鼠が出て(おそらく駆除業者に投げ込まれたと疑っている)、その1匹を風呂場に追い詰めたために、脱衣所に入れなくなり、やむなく通った、少し離れた銭湯まで行った。ここは小ぎれいで明るく、風情もあって、落ち付く。

そこの浴場に広がる懐かしい風景を見た。富士山の大きな絵の下に、手書きの看板が2枚並んでいる。子供のころ、別の銭湯でいつも見かけた物に、色や字形が似ている。

(画像はクリックで拡大)

【書体は、入浴中は、ファニー体にもっと近く見えたのは、昭和の雰囲気に当てられたせいか、立ちのぼる湯気のせいか、熱い湯につかってのぼせたせいか。銭湯のご主人によれば、広告を見て、酒店に電話しようというような人もいただろうとのこと。
箋の手書きの略字体(常用漢字表にも示すことができたもの)、酒(書写体交じり)、帰(旧字体交じり)、需(略字体)、風(崩し字交じり)、品(兼筆による略字)などに、昭和の趣が感じられる。】

帰ってからそこのHPなどをWEBで見てみたが、看板などはやはり小さくしか写っておらず、肝腎の字はほとんど読めない。裸の男たちが身体を洗い、湯に浸かるなかでは、さすがの私でも写真は撮れない。脱衣場には撮影禁止とはっきりと書かれており、その目的は違うと言っても、やはりためらわれ、当然のことながら自重した。

(画像はクリックで拡大)

【蔵が1画足りないのも、一点一画手で書いたためのご愛嬌。女湯の看板。】

それらの看板に記された電話番号は3桁ではなく4桁だが、いつごろ、どこの看板店が書いたものだろう。筆の跡が感じられる筆跡で、決して今どきのフォントではない。また浴室内には、「身体」に「からだ」のルビ、「お上がり下さい」という目が回りそうな表記、「手拭、足拭」と「拭」の訓読み2種が同居した、賑やかな1枚の手書き看板もある。

そのお風呂屋さんの娘さんのお嬢さんが我が子と同級生とのこと。しかも、週末には授業参観があるから、クラスは違えど娘さん即ちお母さんに話ができるかもしれないそうだ。私はあいにく人間ドックの日に当たっていたので、家内に事情を話して撮影の許可をもらえないか、と託しておいたところ、運良く話せて、無事にOKを頂けたそうだ。

今日は仕事の谷間のオフの日だったので、昼過ぎに電話をしてみた。説明が難しいところだったが、(娘から話は)聞いています、何を撮りたいのか分からないけど、いつでもどうぞ、とおじいさんらしき人がおっしゃってくれた。時間が始まるとお客さんが入ってくるから、とのこと、おことばに甘えて、今から10分後くらいにお邪魔しますと、すぐにデジタルカメラとメモを持って向かった。

閉じたシャッターが目立つ商店街に、昔からの酒屋がちょうど開いていた。その商店街は、昔は何十軒も軒を連ね、向こうにも店が並んでいたのに、今では2軒しかなくなった、と店主はやけ酒に酔ったかのように嘆く。微醺を含んだようにも見えるその人に、贈り物に適した日本酒を選んでもらった。

開店前のこぎれいな銭湯で、60代くらいのご夫婦が自動ドアを開けて対応してくれた。旦那さんは、少し前に子供と通ったときに、料金を渡した方だった。文字を撮るっていっても、どこにあるのか、あったかなー、と奥さんが浴室を見渡す。確かに、注意書きはともかく、看板の文字は風景ですらないようだ。でも、閉じた有料施設ながらも、立派な公共の空間であり、これも言語景観といえるのではなかろうか。

それを銭湯で、遠慮されるお二人に御礼にとお渡しすると、その銘柄にちょうど屋号と同じ漢字が入っており、喜んで頂くことができた。濡れるからと、掃除用のスリッパを貸して下さった。開店前の無人の浴室へと入り込む。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』 『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。