家の風呂が古くなったので、少しだけわがままを言って工事を入れた。4日間は内風呂が使えなくなる。一番寒い時期だが仕方がない、次男を連れて完全防寒の格好をして夜に銭湯に通うことにした。子供のころ、この辺りに日曜ごとに来ては、昼間に祖母に耳の裏まで洗ってもらった、あの広々とした銭湯は、引越を経たためさすがに遠くなってしまった。
初日に行った近所の一軒目は、初めての所だが、雰囲気がすこし薄暗い。定番のケロリンの桶。曇ったガラスに、「一二三」と母が指で書いて漢字を教えてくれた(すでに何となく見覚えはあったような記憶もある)ので、私がピンと来てじゃあ4は「」だね、と幼い日に間違えて書いた漢字の思い出話を、次男に語ってみた。私が最初に書いた漢字が誤字だったのだ(のちに古字と暗合していたことを知る)。
次の日は、前に鼠が出て(おそらく駆除業者に投げ込まれたと疑っている)、その1匹を風呂場に追い詰めたために、脱衣所に入れなくなり、やむなく通った、少し離れた銭湯まで行った。ここは小ぎれいで明るく、風情もあって、落ち付く。
そこの浴場に広がる懐かしい風景を見た。富士山の大きな絵の下に、手書きの看板が2枚並んでいる。子供のころ、別の銭湯でいつも見かけた物に、色や字形が似ている。
帰ってからそこのHPなどをWEBで見てみたが、看板などはやはり小さくしか写っておらず、肝腎の字はほとんど読めない。裸の男たちが身体を洗い、湯に浸かるなかでは、さすがの私でも写真は撮れない。脱衣場には撮影禁止とはっきりと書かれており、その目的は違うと言っても、やはりためらわれ、当然のことながら自重した。
それらの看板に記された電話番号は3桁ではなく4桁だが、いつごろ、どこの看板店が書いたものだろう。筆の跡が感じられる筆跡で、決して今どきのフォントではない。また浴室内には、「身体」に「からだ」のルビ、「お上がり下さい」という目が回りそうな表記、「手拭、足拭」と「拭」の訓読み2種が同居した、賑やかな1枚の手書き看板もある。
そのお風呂屋さんの娘さんのお嬢さんが我が子と同級生とのこと。しかも、週末には授業参観があるから、クラスは違えど娘さん即ちお母さんに話ができるかもしれないそうだ。私はあいにく人間ドックの日に当たっていたので、家内に事情を話して撮影の許可をもらえないか、と託しておいたところ、運良く話せて、無事にOKを頂けたそうだ。
今日は仕事の谷間のオフの日だったので、昼過ぎに電話をしてみた。説明が難しいところだったが、(娘から話は)聞いています、何を撮りたいのか分からないけど、いつでもどうぞ、とおじいさんらしき人がおっしゃってくれた。時間が始まるとお客さんが入ってくるから、とのこと、おことばに甘えて、今から10分後くらいにお邪魔しますと、すぐにデジタルカメラとメモを持って向かった。
閉じたシャッターが目立つ商店街に、昔からの酒屋がちょうど開いていた。その商店街は、昔は何十軒も軒を連ね、向こうにも店が並んでいたのに、今では2軒しかなくなった、と店主はやけ酒に酔ったかのように嘆く。微醺を含んだようにも見えるその人に、贈り物に適した日本酒を選んでもらった。
開店前のこぎれいな銭湯で、60代くらいのご夫婦が自動ドアを開けて対応してくれた。旦那さんは、少し前に子供と通ったときに、料金を渡した方だった。文字を撮るっていっても、どこにあるのか、あったかなー、と奥さんが浴室を見渡す。確かに、注意書きはともかく、看板の文字は風景ですらないようだ。でも、閉じた有料施設ながらも、立派な公共の空間であり、これも言語景観といえるのではなかろうか。
それを銭湯で、遠慮されるお二人に御礼にとお渡しすると、その銘柄にちょうど屋号と同じ漢字が入っており、喜んで頂くことができた。濡れるからと、掃除用のスリッパを貸して下さった。開店前の無人の浴室へと入り込む。