今週のことわざ

(な)いて馬謖(ばしょく)を斬(き)

2008年7月14日

出典

三国志(さんごくし)・蜀書(しょくしょ)・馬謖(ばしょく)伝―三国志(さんごくし)・蜀書(しょくしょ)・諸葛亮(しょかつりょう)伝―三国志(さんごくし)演義(えんぎ)・第九十六回

意味

信頼している部下を、規律の厳正を守るために私情を排して処分すること。心ならずも友人や部下を捨てること。「馬謖(一九〇~二二八)」は、蜀(しょく)の軍人。諸葛亮(しょかつりょう)(=孔明(こうめい))の最も信頼している部下だった。この話は『三国志(さんごくし)』に二か所出てくるが、「泣いて馬謖を斬(き)る」という表現では出てこない。元(げん)末の小説『三国志演義(えんぎ)』に、「孔明涙を揮(ふる)いて馬謖を斬る」という句がある。おそらくこれを変形して見出し語のような表現となったものと思われる。

訳文

<馬謖(ばしょく)伝>(蜀王(しょくおう)の臣馬良(ばりょう)の弟馬謖(ばしょく)は才気すぐれ、兵術を得意としていたが、やや弁舌のみに頼り、実の伴わぬうらみがあった。しかし、蜀の丞相(じょうしょう)諸葛亮(しょかつりょう)《=孔明(こうめい)》は、彼を自分の後継者として信頼していた。孔明は蜀の先帝劉備(りゅうび)の死後、しばしば出兵して魏(ぎ)と戦ったが、馬謖は彼の参謀に抜擢(ばってき)されていた。)建興(けんこう)六年(二二八)、孔明は出兵して祁山(きざん)に向かった。歴戦の将魏延(ぎえん)や呉壱(ごいつ)らが従軍した。人々は、彼らのだれかを先鋒(せんぽう)としたらよかろうと論じたが、孔明は人々の考え方と相違して馬謖に命じて大軍を率いて先鋒とし、魏将張郃(ちょうこう)と街亭(がいてい)で戦わせた。ところが馬謖は張郃に破られて、部下の兵卒は四散した。孔明は前進基地を失い、蜀の漢中(かんちゅう)へ退却した。馬謖は牢(ろう)に入れられ死んだ。孔明は彼のために涙を流した。・・・・・・謖は三十九歳だった。

原文

建興六年、亮出軍向祁山。時有宿将魏延呉壱等、論者皆言、以為宜先鋒。而亮違衆抜謖。統大衆前、与魏将張郃于街亮、為郃所一レ破。士卒離散。亮進無拠、退軍還漢中一レ。謖下獄物故。亮為之流涕。・・・・・・謖年三十九。〔建興(けんこう)六年、亮(りょう)、軍を出(いだ)して祁山(きざん)に向かう。時に宿将魏延(ぎえん)・呉壱(ごいつ)(ら)有り、論ずる者皆言う、以為(おもえ)らく宜(よろ)しく先鋒(せんぽう)と為(な)さしむべし、と。而(しか)るに亮、衆に違(たが)いて謖(しょく)を抜く。大衆を統(ひき)いて前に在り、魏(ぎ)将張?(ちょうこう)と街亭(がいてい)に戦い、郃の破る所と為る。士卒離散す。亮、進むに拠(よ)る所無く、軍を退(ひ)きて漢中(かんちゅう)に還(かえ)る。謖、獄に下され物故せり。亮、これが為(ため)に流涕(りゅうてい)す。・・・・・・謖、年三十九。〕

解説

『三国志(さんごくし)』蜀書(しょくしょ)・諸葛亮(しょかつりょう)伝には、「漢中(かんちゅう)に還(かえ)り、謖(しょく)を戮(き)りて以(もっ)て衆に謝す」とある。元(げん)末の羅貫中(らかんちゅう)の小説『三国志(さんごくし)演義(えんぎ)』第九十六回の題名は、「孔明揮涙斬馬謖、・・・・・・(孔明(こうめい)涙を揮(ふる)いて馬謖(ばしょく)を斬(き)り、・・・・・・)」とあり、また本文には、「『今、四方で権力を争い、戦争が始まっている。もしも軍律を無視したら、どうして敵を討つことができよう。どうしても斬らなければならぬ。』と言った。しばらくすると、刑士が馬謖の首を階下に持ってきた。孔明はいつまでも大声で泣いた。」とある。

類句

◇涙(なみだ)を揮(ふる)いて馬謖(ばしょく)を斬(き)る。

筆者プロフィール

三省堂辞書編集部