今週のことわざ

背水(はいすい)の陣(じん)

2008年7月21日

出典

史記(しき)・淮陰侯(わいいんこう)列伝

意味

逆境に追い込まれて覚悟を決め、全力をあげて勝負すること。逃げようのない位置に自分をおき決死の覚悟で戦うこと。「背水」は、河を背にすること。この故事は、周(しゅう)の武王(ぶおう)が殷(いん)の紂王(ちゅうおう)を破ったときの話(『尉繚子(うつりょうし)』天官(てんかん))や、後漢(ごかん)の時、清陽(せいよう)の博平(はくへい)が銅馬(どうば)の賊を破ったときの話(『後漢書(ごかんじょ)』銚期(ちょうき)列伝)など各書にみえるが、『史記(しき)』の故事が最も著名で、『十八史略(じゅうはっしりゃく)』西漢(せいかん)・太祖高皇帝(たいそこうこうてい)にも出ている。「陣」は、本来「陳」と書き、のち、軍陣の場合のみ「陣」と書いた。

原文

信及使万人先行出、背水陳。趙軍望見而大笑。・・・・・・信曰、・・・・・・兵法不曰、陥之死地而後生、置之亡地而後存。〔信(しん)(すなわ)ち万人をして先行して出(い)で、水を背にして陳(じん)せしむ。趙(ちょう)軍望み見て大いに笑う。・・・・・・信曰(いわ)く、・・・・・・兵法に曰(い)わずや、これを死地に陥(おとしい)れて而(しか)る後(のち)生き、これを亡地(ぼうち)に置きて而る後に存す、と。〕

訳文

(漢(かん)の二年《前二〇五》、漢軍が彭城(ほうじょう)で楚(そ)軍に敗れた。諸国は次々と漢に背いた。漢王はその臣韓信(かんしん)に各国を征伐させた。韓信は趙(ちょう)を討とうとして井陘口(せいけいこう)《河北(かほく)省井陘(せいけい)県の北》の隘路(あいろ)を突破しようとした。趙軍はそこに二十万の兵を集結した。漢軍は部下二千に赤い旗を持たせ、山中に伏兵として隠しておいて、)韓信は一万の兵を先発させ、井陘口を出て河を背にして陣を布(し)いた。趙の軍はこれを見て河を背にする兵法があるかとあざけって大笑いした。(翌朝、趙軍が陣地を出て攻撃してくると、韓信の軍はわざと負けたふりをして河辺に退却したが、そこで死力を尽くして趙軍を防いだ。その間に山中の漢の伏兵が趙軍の陣地に入り、赤い旗を掲げた。趙軍が慌てふためいているところを、漢軍は挟み撃ちにして大いに破り、趙の成安君(せいあんくん)《=陳余(ちんよ)》を泜水(ていすい)のほとりで斬(き)り、趙王、歇(あつ)をとりこにした。戦後、諸将が韓信に河を背にするというのは普通の兵法にはないが、なんという戦術なのかと尋ねた。)韓信は「・・・・・・兵法に、軍を死地に陥(おとしい)れてこそ生きる道がある。必ず滅びる境遇におかれてこそ存する道がある、というではないか。」と答えた。

類句

◆糧(かて)を捨(す)て船(ふね)を沈(しず)

類句

◆釜(かま)を破(やぶ)り船(ふね)を沈(しず)

筆者プロフィール

三省堂辞書編集部