その頃シンシナティでは、ロングリー式速記タイプライティング専門学校を経営するトローブが、1888年7月25日におこなわれたタイプライターコンテストで、ソルトレークシティのマッガリンに敗退するという「事件」が起こっていました。しかし、ロングリー夫人は、この「事件」に対して、特に何のコメントも出しませんでした。というのも、この翌日にトローブが、「Caligraph No.2」を捨てて「Remington Standard Type-Writer No.2」に乗り換えることを宣言したからです。ロングリー夫人の運指法が悪いのではなく、「Caligraph No.2」と「Remington Standard Type-Writer No.2」の性能差なのだ、という形で、この「事件」は落着してしまったのです。
ロングリー夫人は、サウスパサデナにおいても、女性参政権運動の闘士として、活動を続けていました。1890年4月、ロサンゼルス女性参政権協会の会長に就任したロングリー夫人は、人民党(The People’s Party)との関係を強化していきました。そして1894年5月22日、カリフォルニアの人民党は、サクラメントで開催された党大会において、ロングリー夫人を副代表に選出しました。それはすなわち、カリフォルニアの人民党が、女性参政権の獲得を党の目標とする、ということを意味していました。
その間、ロングリー夫人は、タイプライター教育にも力を入れていました。手狭になった速記タイプライター電信学校を、ウィルソン・ブロックに移転し、さらに教室数を増やしたのです。また、1892年8月には、「Bar-Lock」も扱い始めました。「Bar-Lock」にはプラテンシフト機構はないものの、小文字が「Remington Standard Type-Writer No.2」と同じキー配列だったからです。
1895年5月、ロングリー夫妻の自宅前、サウスパサデナのミッション通りを、路面電車が開通しました。パサデナ&ロサンゼルス電気鉄道が敷設したもので、ミッション通りを西に向かった後、アロヨセコ川ぞいにロサンゼルスへと下り、スプリング通りを南に向かって、ウィルソン・ブロックのすぐそばを通るものでした。すなわち、ロングリー夫妻の自宅と、速記タイプライター電信学校を、路面電車が結んだのです。ロングリー夫妻にとっては、非常にラッキーな出来事でした。