1897年5月12日、ロングリー夫妻は、金婚式を祝いました。妻マーガレット66歳、夫エリアス73歳の金婚式でした。翌日の『Los Angeles Herald』紙は、こう伝えています。
昨日午後、エリアス・ロングリー夫妻の結婚50周年を記念して、素晴らしい宴会が、夫妻の自宅で催された。ハワード・ロングリー夫妻が取り仕切ったこの宴会は、細部に渡って、両親を驚かせるに十分なものだった。自宅は、隅から隅まで、美しい花で飾られていた。それらの花は、カゴや花瓶の選択も含め、友人たちからのプレゼントだった。
しかし、この頃からエリアスは肺結核の症状が出はじめ、少しずつ健康状態が悪化していきました。そして、1899年1月12日、エリアスは亡くなりました。75歳でした。4週間後、1899年2月7日付のロングリー夫人からマイナー宛の手紙には、こう綴られていました。
貴方から夫エリアス宛1月12日付けの、短いながらも、お心づかいのこもった手紙を読みました。まさにその日、夫の魂は、私たちのもとを旅立ちました。夫は長い間、重い病と闘っており、最近は少し良くなっていたのですが、体が非常に弱っておりました。そんなおり、夫は風邪を引いてしまいました。夫は外出を控えていましたが、インフルエンザが空気中に漂っていて、逃れることができなかったのです。体が非常に弱っていたため、抵抗力もほとんど失くなっており、水曜日には重篤な気管支炎を再発いたしました。そこから24時間、持ちませんでした。もちろん、貴方からの手紙を読むことはかないませんでした。もしインフルエンザにかからなければ、もう数年は生きられたかもしれません。しかし夫は、もう、主のもとに召されました。
1899年3月8日、息子のハワードが、32歳の若さで死去しました。ハワードも肺結核を患っており、父エリアスの後を追うように亡くなったのでした。ロングリー夫人は、ロサンゼルスの速記タイプライター電信学校を閉鎖し、サウスパサデナの自宅に閉じこもりがちになりました。ただし、外出は少なくなったものの、ロングリー夫人の筆まめ(というかタイプライターまめ)は、相変わらずでした。たとえばこの頃、ウィックオフ・シーマンズ&ベネディクト社が刊行したパンフレット『The History of Touch Typewriting』に、ロングリー夫人は以下の一文を寄せています。
夫エリアスが「Remington Typewriter No.2」を最初に家に持ち込んだのは、1880年のことでした。私は、タイプライターに興味を持ち、タイプライターに魅せられました。もちろん、その時点では、私自身がタイプライターの教師になるなどとは、夢にも思いませんでした。私は、この機械を正しく取り扱えるよう、付属の小冊子を注意深く読みました。しかしそこには、両手の指を一本ずつ使う、と書かれていたのです。あるいは、右手は二本の指を使ってもよい、と。私は驚きました。どうして全部の指じゃないのでしょう。