1902年8月11日、ロサンゼルス女性参政権協会は、市役所での抗議行動をおこないました。翌12日の連邦議会予備選挙、および11月に予定されていた本選挙に際し、選挙人名簿に女性を登載するよう、女性50人で大挙して、ロサンゼルス市役所に詰めかけたのです。50人の先頭には、ロングリー夫人の姿がありました。ロングリー夫人は、ロサンゼルス女性参政権協会の代表として、また同協会の代弁者として、この抗議行動を先導したのです。この抗議行動は、残念ながら成功に至りませんでしたが、ロサンゼルス女性参政権協会は、その後も抗議行動の輪を広げていきました。
ただし、ロングリー夫人自身は、現場での活動からは、少しずつ身を引いていきました。レオの妻エイダ(Ada Adrian Jackson Longley)や、姪のグレース(Grace Longley)に、ロサンゼルス女性参政権協会を託し、ロングリー夫人自身は、雑誌記事や新聞投稿に専念することにしたのです。ロングリー夫人が、1909年7月19日付『Los Angeles Herald』に投稿した文章を見てみましょう。
ここで私は、私たちの革命的な先導者たちが書いた、そして現在も有効な、我が国の憲法について注意を喚起したい。その前文に「われら合衆国の国民は」とある。ここでいう「われら」は男性だけではない。第2条にも「下院は、各州の国民によって選ばれる」とある。これも同じ「国民」だ。第4章第2条には「各州の市民は、他の州の市民が有する全ての特権を、等しく有する」とある。そして修正第15条は、こう宣言している。「合衆国市民の選挙権は、人種、肌の色あるいは以前奴隷であったことを理由として、否定されたり縮減されたりしてはならない」
ワイオミング州・コロラド州・アイダホ州・ユタ州では、すでに女性による投票がおこなわれていました。合衆国憲法第4章第2条と修正第15条によれば、それはカリフォルニア州においてもおこなわれるべきだ、とロングリー夫人は主張したのです。ただし実は、この文章の中で、ロングリー夫人は、アメリカ合衆国憲法の条文を少しだけ改変しています。ちょっとした省略でしたが、それは、ロングリー夫人の主張に有利な改変でした。
1911年10月、カリフォルニア州での女性参政権が認められました。それを見届けたロングリー夫人は、1912年4月16日、サウスパサデナの自宅で、その生涯を閉じました。81歳でした。3日後の4月19日、レオの自宅で葬儀がおこなわれ、ロングリー夫人の亡骸は、マウンテンビュー墓地に埋葬されました。
ロングリー夫人が待ち望んだ女性参政権は、1920年8月18日、アメリカ合衆国憲法修正第19条として成立しました。修正第15条の成立から、実に半世紀もの時が過ぎていました。そして、ロングリー夫人の悲願は、現在も、合衆国憲法修正第19条として生き続けているのです。
第1節 合衆国市民の選挙権は、性別を理由として、合衆国あるいは州によって否定されたり縮減されたりしてはならない。 第2節 連邦議会は、適切な法律で本条を執行する権限を有する。
(エリザベス・マーガレット・ベイター・ロングリー終わり)