オール女史(Mary E. Orr)は、1866年8月20日、ニューヨーク州マジソン郡ブルックフィールドに生まれました。父親の死後、家族とともにニューヨークに移り住んだオール女史は、最初は教師の道を志したものの、16歳でタイピストへと転向しました。ちょうど、ウィックオフ・シーマンズ&ベネディクト社が「Remington Standard Type-Writer No.2」を発表した時期で、オール女史も、このタイプライターでタイピング技術を習得しました。両手の人差指だけを使う、いわゆる二本指タイピストだったにもかかわらず、オール女史はメキメキとタイピングの腕を上げました。最初の頃は週6ドルだった稼ぎも、週10ドル、そして週15ドルと、どんどん増えていきました。
18歳になったオール女史は、ブロードウェイ237番地に、スチュワート女史(Jessie L. Stewart)と二人で共同事務所を開設しました。「Stewart & Orr」と名付けられた共同事務所は、かなり繁盛していたのですが、オール女史はそれでも飽き足らず、さらに1887年には、ブロードウェイ120番地のエクイタブル生命ビルに、独立事務所を構えました。
この頃オール女史は、ウィックオフ・シーマンズ&ベネディクト社のマクレイン(John Fleming McClain)から、「Remington Standard Type-Writer No.2」に関するいくつかの仕事を引き受けていました。仕事の一つは、D・アップルトン社の『Appleton’s Annual Cyclopedia』に関するものでした。「Remington Standard Type-Writer No.2」が他社製品より優れている、という内容のタイプライター紹介記事が『Appleton’s Annual Cyclopedia』に掲載されるよう、タイピング記録を樹立してほしい、というのです。
オール女史は、口述タイピングにおいても、手書き文書の清書においても、非常に高い能力を有している、とマクレインは考えていました。たぶん、ニューヨークでも一、二を争うだろう、と。その能力を「Remington Standard Type-Writer No.2」の宣伝に活かしたい、とマクレインは考えたのです。ただ、『Appleton’s Annual Cyclopedia』の編集者たちの前で、オール女史の腕前を披露しただけでは、かならずしも「Remington Standard Type-Writer No.2」の宣伝にはなりません。マクレインは、オール女史の能力を活用した、新たな宣伝方法を模索していました。
(メアリー・オール(2)に続く)