1887年12月7日、ウィックオフ・シーマンズ&ベネディクト社は、ニューヨークの新聞各紙に、ある広告を掲載しました。「$1,000 CHALLENGE.」というタイトルが、ひときわ目を引くその広告には、1000ドルを賭けて各社タイプライターを公開の場で競わせよう、各タイプライター会社は三人のタイピストを準備されたし、場所はニューヨーク、期限は1888年3月1日、と記されていました。この広告を打ったマクレインは、「Remington Standard Type-Writer No.2」のタイピスト三人の筆頭に、オール女史を当て込んでいました。
しかし、1888年3月になっても、タイプライター各社対抗コンテストは、実現しませんでした。目論見が外れたマクレインは、今度は別の手段で、オール女史と「Remington Standard Type-Writer No.2」を宣伝することにしました。あちこちの速記者協会に、公開のタイプライターコンテストをおこなうよう、はたらきかけたのです。どのような形のタイプライターコンテストであっても、他社を制してオール女史が優勝しさえすれば、それは同時に「Remington Standard Type-Writer No.2」の名声にもなるからです。
1888年8月1日、オール女史は、ニューヨーク21丁目西208番地のメトロポリタン速記者協会にいました。この夜、メトロポリタン速記者協会では、25ドルの賞金を賭けて、タイプライターコンテストが開催されたのです。コンテストの参加者は、オール女史、グラント女史(M. C. Grant)の女性2人と、マイヤーソン(Emanuel Myerson)、そしてソルトレークシティから来たマッガリン(Frank Edward McGurrin)の男性2人、合わせて4人だけでした。しかも、4人とも「Remington Standard Type-Writer No.2」を使用したのです。仕掛人のマクレインにとっては、多少アテが外れることになりました。
コンテストは、5分間の口述タイピングで競われました。グラント女史、マイヤーソン、オール女史、マッガリン、の順で競技がおこなわれました。結果として、オール女史はマッガリンに敗退、2位に終わりました。オール女史は、5分間で495ワードを叩き、うち19ワードに誤りがあって、差し引き476ワードという記録でした。一方、マッガリンは5分間で494ワード、すなわちオール女史より1ワード少なかったのですが、誤りは15ワードで、差し引き479ワード、優勝はマッガリンのものとなったのです。3位はグラント女史で、差し引き469ワードでした。マッガリンには25ドルが、オール女史には10ドルが、グラント女史には5ドルが、それぞれ賞金として授与されました。
(メアリー・オール(3)に続く)