「書体」が生まれる―ベントンがひらいた文字デザイン

第15回 リン・ボイド・ベントンに弟子入り

筆者:
2019年2月20日

三省堂の常務・亀井寅雄は、その熱意によってベントン彫刻機を買い入れる契約をATFのリン・ボイド・ベントンと結び、すぐれた「文字印刷」を研究するため三省堂に入社してほしいと、農商務省の実業練習生・今井直一を口説き落とした。

 

ベントンが三省堂に機械を渡すことを渋った理由のひとつは、前回も述べたように、すでに日本で輸入されていた2台のベントン彫刻機が活かされていないということだった。

 

「おれの発明した貴重な機械を活用できないとは、まことにけしからん。せっかくこの機械を日本に持ち帰るのであれば、よく練習しておかなければいけない。おまえにはしっかり教えてやるから、すくなくとも3カ月はおれのもとで勉強しろ」

 

今井はベントンにこう言われたが、三省堂の新工場の建設計画が進んでいることもあり、寅雄には一日もはやく覚えて帰ってこいと言われていたため、「なんとか3週間で教えてくれないだろうか」と頼みこんだ。最初は住んでいたニューヨークからATFのあるニュージャージーまで通っていたが、往復に約3時間もかかるので困っていると、「おまえはなかなか熱心に覚えている。おれの家の一部屋を提供するから、ここに住みこんで勉強しろ」とまで言ってくれた。

 

ベントンは、がんこだが、教育熱心なひとだった。当時77歳だったがとても若々しく元気なので、今井は〈そんな老人であろうとは心づかず、ただ耳の遠い人だと思っていた〉そうだ。[注1]ベントンは耳が遠いため、おおきな声でしゃべった。今井も英語がそう達者ではない。あまり何度も聞き返すのも、と適当にわかったふりをしていると、次の講義のときにそれがばれて大声で怒鳴られる、ということもあった。[注2]

日頃は柔和で人なつっこい老人だったが、仕事のときにはきわめて厳格で、ビシビシと今井を教育した。

ベントン母型彫刻機
彫刻作業風景

ベントン母型彫刻機(三省堂印刷所蔵)と、彫刻作業風景。
写真下のように、原字からつくった凹型のパターンを、フォロワーという針でなぞると、機械上部のカッターにその動きが縮小されて伝わり、 母型が彫刻できるというしくみ

発明者の立場から、ベントンは今井にとてもこまかい指導をした。たとえば、彫る母型の大きさ(ポイント)によって使用する針(フォロワー)を変えるのだが、これが正しくないと、よい彫刻ができない。そうした詳細を記述したデータをつくっておいたことが、のちに三省堂でベントン彫刻機を使用したとき、とても役に立った。しかし今井は後年、〈これさえあればまず困ることはあるまいと思っていたが、実際はそんなナマやさしいものではなかったのである〉とも語っている。[注3]

 

今井は、ベントンのもとで勉強した期間のうち約10日間は彼の家に住み込み、ATFに通った。約3週間かけて、ひととおりベントン彫刻機の扱い方を覚えると、帰国の途についた。

 

このとき今井は、ひとつのおみやげをもらっていた。

彼を訪問したものは誰でも、おみやげにもらう活字がある。それは十二ポイントの面に、一文字が〇・五ポイントすなわち〇・一七五ミリメートルの大きさで、聖書の主の祈り六十六語、二百七十一字を浮き彫りにした活字である。もとより肉眼では少しもわからないが、拡大鏡でヤット読み取れるというのが御自慢もの(後略)[注4]

ベントン彫刻機では、わずか0.175mm角の文字を約4.2mm角の面に271字も凸刻できたというのだ。それほどの高い精度をほこる彫刻機だったのである。

 

まさにこのことこそ、寅雄がベントン彫刻機を欲しがった理由だった。辞書には、ちいさな活字をもちいて、できる限りたくさんの情報を載せることが求められる。ちいさくても読みやすい、うつくしい活字があれば、辞書のいっそうの小型化が望める。三省堂では亀井忠一の時代に、木活字の名人・臼井翁に辞書用7号活字の種字を新刻させたが、約1.8mm角であるこの大きさが、手彫りでは小型活字の限界だった。[注5]

 

大正11年(1922)8月、アメリカから帰国した今井直一は、亀井寅雄の待つ三省堂に入社した。

今井直一『書物と活字』(印刷学会出版部、1949)装丁は原弘

今井直一『書物と活字』(印刷学会出版部、1949)装丁は原弘

[注]

  1. 今井直一『書物と活字』(印刷学会出版部、1949)P.47
  2. 「辞典と組んで30年 今井直一氏の業績」『印刷雑誌』(印刷雑誌社、1957年3月号)P.25
  3. 今井直一「我が社の活字」『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955)P.28
  4. 今井直一『書物と活字』(印刷学会出版部、1949)P.48
  5. 今井直一「我が社の活字」『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955)P.22

[参考文献]

  • 『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955)から、
    亀井寅雄「三省堂の印刷工場」
    今井直一「我が社の活字」
  • 今井直一『書物と活字』(印刷学会出版部、1949)
  • 『亀井寅雄追憶記』(故亀井寅雄追憶記編纂準備会、1956)
  • 亀井寅雄 述/藤原楚水 筆録『三省堂を語る』(三省堂、1979)
  • 『三省堂の百年』(三省堂、1982)
  • 橘弘一郎「活字と共に三十五年――今井直一氏に聞く」『印刷界』40号(日本印刷新聞社、1957)
  • 「辞典と組んで30年 今井直一氏の業績」『印刷雑誌』(印刷雑誌社、1957年3月号)

筆者プロフィール

雪 朱里 ( ゆき・あかり)

ライター、編集者。

1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

編集部から

ときは大正、関東大震災の混乱のさなか、三省堂はベントン母型彫刻機をやっと入手した。この機械は、当時、国立印刷局と築地活版、そして三省堂と日本に3台しかなかった。
その後、昭和初期には漢字の彫刻に着手。「辞典用の活字とは、国語の基本」という教育のもと、「見た目にも麗しく、安定感があり、読みやすい書体」の開発が進んだ。
……ここまでは三省堂の社史を読めばわかること。しかし、それはどんな時代であったか。そこにどんな人と人とのかかわり、会社と会社との関係があったか。その後の「文字」「印刷」「出版」にどのような影響があったか。
文字・印刷などのフィールドで活躍する雪朱里さんが、当時の資料を読み解き、関係者への取材を重ねて見えてきたことを書きつづります。
水曜日(当面は隔週で)の掲載を予定しております。