タイプライターに魅せられた女たち・第88回

エリザベス・マーガレット・ベイター・ロングリー(13)

筆者:
2013年7月4日

ロングリー夫人の運指教本は、かなりたくさんの数が発行され、シンシナティのみならず、アメリカ中に販売されました。ただし、シンシナティ速記タイプライター専門学校の経営は、必ずしもうまくいっていなかったようです。というのもこの頃、ベン・ピットマンの表音速記専門学校が、ハワード(Jerome Bird Howard)という人物の助力で再建を果たしつつあり、生徒が少しずつ、ベン・ピットマンの元へと戻っていったのです。

それに加え、夫エリアスのリューマチと書痙は、悪化の一途をたどっていました。エリアスは、速記者としての仕事をあきらめ、原稿も「Remington Standard Type-Writer No.2」で執筆していましたが、冬場のシンシナティが堪えるようになってきていました。シンシナティの冬は、ほぼずっと氷点下が続きます。室内ならば暖炉もありますが、リューマチのエリアスにとって、専門学校や裁判所などへの馬車での移動は、非常につらいものだったのです。

温暖なカリフォルニアへの移住を決意したロングリー夫妻は、1885年5月末にシンシナティを旅立ちました。エリアスが発行していた雑誌『The Phonetic Educator』の編集と出版は、ニューヨークのマイナー(Enoch Newton Minor)に譲渡し、マイナーは同誌を『The Phonographic World』と改題しました。シンシナティ速記タイプライター専門学校の経営は、弟子の一人であるワーグナー(William Henry Wagner)に任せましたが、結局、ジャック(James Campbell Jack)とトローブ(Louis Traub)に売却してしまいました。

しばらくロサンゼルスに滞在した後、ロングリー夫妻は、郊外のサウスパサデナに土地を買って、そこへと移り住みました。さらに、ロサンゼルスのスプリング通りにオフィスを借り、速記タイプライター電信学校を開設しました。サウスパサデナの気候が、エリアスの健康に良かったのか、リューマチの症状が劇的に改善し、速記者として再び活動できるまでに回復したのです。速記タイプライター電信学校の経営も順調で、ロングリー夫妻は、シンシナティからワーグナーを呼び寄せて、講師に着任させました。ロングリー夫妻と、息子のハワード(Frank Howard Longley)だけでは、とても手が足りなかったのです。

サウスパサデナでのロングリー夫妻(『The Phonographic World』1887年11月号)
サウスパサデナでのロングリー夫妻(『The Phonographic World』1887年11月号)

エリザベス・マーガレット・ベイター・ロングリー(14)に続く)

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

https://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

近代文明の進歩に大きな影響を与えた工業製品であるタイプライター。その改良の歴史をひもとく連載です。毎週木曜日の掲載です。とりあげる人物が女性の場合、タイトルは「タイプライターに魅せられた女たち」となります。