ロングリー夫人の運指教本は、かなりたくさんの数が発行され、シンシナティのみならず、アメリカ中に販売されました。ただし、シンシナティ速記タイプライター専門学校の経営は、必ずしもうまくいっていなかったようです。というのもこの頃、ベン・ピットマンの表音速記専門学校が、ハワード(Jerome Bird Howard)という人物の助力で再建を果たしつつあり、生徒が少しずつ、ベン・ピットマンの元へと戻っていったのです。
それに加え、夫エリアスのリューマチと書痙は、悪化の一途をたどっていました。エリアスは、速記者としての仕事をあきらめ、原稿も「Remington Standard Type-Writer No.2」で執筆していましたが、冬場のシンシナティが堪えるようになってきていました。シンシナティの冬は、ほぼずっと氷点下が続きます。室内ならば暖炉もありますが、リューマチのエリアスにとって、専門学校や裁判所などへの馬車での移動は、非常につらいものだったのです。
温暖なカリフォルニアへの移住を決意したロングリー夫妻は、1885年5月末にシンシナティを旅立ちました。エリアスが発行していた雑誌『The Phonetic Educator』の編集と出版は、ニューヨークのマイナー(Enoch Newton Minor)に譲渡し、マイナーは同誌を『The Phonographic World』と改題しました。シンシナティ速記タイプライター専門学校の経営は、弟子の一人であるワーグナー(William Henry Wagner)に任せましたが、結局、ジャック(James Campbell Jack)とトローブ(Louis Traub)に売却してしまいました。
しばらくロサンゼルスに滞在した後、ロングリー夫妻は、郊外のサウスパサデナに土地を買って、そこへと移り住みました。さらに、ロサンゼルスのスプリング通りにオフィスを借り、速記タイプライター電信学校を開設しました。サウスパサデナの気候が、エリアスの健康に良かったのか、リューマチの症状が劇的に改善し、速記者として再び活動できるまでに回復したのです。速記タイプライター電信学校の経営も順調で、ロングリー夫妻は、シンシナティからワーグナーを呼び寄せて、講師に着任させました。ロングリー夫妻と、息子のハワード(Frank Howard Longley)だけでは、とても手が足りなかったのです。