第16回に引き続き、草山直吉の卒業証書から当時の学校の様子をあきらかにしていきます。
明治5年に頒布された「学制」には、「大中小学区ノ事」として日本全国を8つの大学区に分け、一つの大学区を32の中学区に分け、更に一つの中学区を210の小学区に分けるとあります。これが実践されれば全国で5万3760校(8×32×210)の小学校を設けることとなり、それは人口600人を以て1小学区とすることを目的としたものでした。実際ははるかに及びませんでしたが、明治6年に1万2558校、明治7年には現代とほぼ同数の約2万校の小学校が存在しました(もっとも立派な校舎をもつ学校は少なく、寺子屋が学校と名を変えただけのものも多かったのですが)。
直吉の卒業証書を見ると、学校名がこの学制期のナンバリングで記載されています。足柄県は第1大学区に指定された1府12県(東京府と関東近県)の中の1つでしたので、この第1⼤学区内の第28の中学区、その中の第145番の小学校(第三級以降は学区変更のためか第140番小学となっています)である、と記しているのです。 証書に押された校印も何々学校ではなく、このナンバリングで記されています。手書きの証書に「第何大学区 第何中学区 第何番小学」といちいち書き込むのは大変だと思いますが、「学制」が廃止される明治12年まではどの卒業証書も同様の体裁をとっています。そして、第一級卒業、つまり下等小学卒業の証書にだけ、「平澤学校」と校名が併記されています。
氏名の右肩には、在住する県や村の名称と共に族称(維新後に定められた国民の身分上の呼称)が記されています。直吉の族称は平民で、明治5年の壬申戸籍によれば人口の93パーセントをこの平民が占めています。当館が所蔵する明治6年から12年までの卒業証書のうち、族称が記載された28人を調べたところ、平民22人に対して、士族が6人もいました。確認した数が少ないためはっきりしたことは言えませんが、人口比率のわりに士族が就学・卒業した割合が多かったと推察されます。
氏名の左下には年齢が記されています。第八級卒業証書にある「当年十二月九年十月」とは、今年12月で満9歳と10カ月であるという意味です。旧来の数え年(誕生月に関わらず、新年を迎えると一つ年を加えて数える年齢)をとらず、西洋風に満年齢を採用したところが開化的ですね。直吉は第八級を9歳10か月で終えたということは、入学年齢も9歳だったことになります。これは何も直吉の入学が遅れたというのではなく、明治6年は学校がスタートした年でもあり、入学者は6歳未満から10代後半までと年齢層が幅広かったのが実情だったのです。
日本最初の、と言っていいかはわかりません(これ以前のものをご存知の方は、ぜひお知らせください)が、近代小学校揺籃(ようらん) 期の姿を知るうえで、とても意味のある卒業証書です。