1906年2月23日、マレーの遠隔タイプライターが、モスクワ~サンクトペテルブルク間を繋ぎました。この頃すでに、マレーの遠隔タイプライターは、ロンドン~パリ~ベルリン間や、ニューヨーク~シカゴ間を結んでいました。しかし、マレーの遠隔タイプライターは大量生産が難しく、いくら便利であることがわかっていても、すぐには生産・設置できない、という問題を抱えていました。大量生産を阻んでいたのは、受信機のアクチュエーターでした。既製のタイプライターの下部にアクチュエーターを繋ぐ、というやり方では、受信機を1台1台手作業で作るしかありませんし、おいそれと移動もできません。アクチュエーターを内蔵した電動タイプライターを、マレーは製作する必要があったのです。
しかし現実には、この当時、実用化されていた電動タイプライターは、わずかに「Blickensderfer Electric」しかありませんでした。もちろんマレーは、「Blickensderfer Electric」を改造して、受信機として使うことも考えたのですが、これはうまくいきませんでした。受信機として使うためには、鑽孔テープを読み込んで印字をおこなう必要があるのですが、マレーがこれまでに使用してきた鑽孔パターンを、直接「Blickensderfer Electric」に適用するのは、無理があったのです。かと言って、「Blickensderfer Electric」に合わせた鑽孔パターンを設計しなおすと、鑽孔5つで1文字を表すことができず、送信機や通信回線の大幅な設計変更が必要となります。「Blickensderfer Electric」をマレー受信機として使うのは、どう考えても無理がありました。ただ、「Blickensderfer Electric」が、キャリッジリターン(プラテンを右端に動かす)と改行(行送り)の動作機構を独立させていて、それぞれにキーを準備している点は、マレーも参考にしたようです。
マレーは、ロンドンとニューヨーク、さらにはシカゴとの間を、忙しく往復しはじめました。マレーの受信機を製造できる会社は、アメリカにしか存在しないと考えたからです。ニューヨークに本社を置くウェスタン・ユニオン・テレグラフ社との交渉で、マレー電信機のアメリカにおける特許権は、同社が買い取ることになりました。さらに同社との交渉で、マレー電信機の実際の製造はウェスタン・エレクトリック社がおこなうことになり、マレーは技術顧問という形で提携していくことになりました。
1912年1月5日、マレーは、9歳年下のパトリシア(Patricia Cosgrave)と、ニューヨークで結婚しました。マレーとクラスメートだったコスグレーブ(John O’Hara Cosgrave)の紹介で、コスグレーブの妹と結婚したのです。この時、マレー46歳。当時としても、かなり晩婚でした。
(ドナルド・マレー(8)に続く)