今回、『三省堂国語辞典 第六版』の編集に参加しました。学生時代から『三国(サンコク)』を最高の辞書と信じて疑わない私にとっては、この上ない幸せです。
本欄をお読みの読者なら、『三国』のことはご存じかもしれません。ところが、書店や出版・報道関係の人でも、この辞書のことを知らない人がいます。まるで、チューリップを知らない花屋さんのようだ、と大いに不満を感じます。『三国』の魅力が意外に理解されていないことは、私にとっては見過ごせません。
そこで、この連載では、『三国』のキャッチコピーを考えてみることにしました。実際の広告で使うわけではありませんが、もし評判のよいコピーがあれば、ひょっとして本当の広告でも使ってくれないかしら、というくらいには思っています。
第1回のコピーは、『三国』の編集主幹だった見坊豪紀(けんぼう・ひでとし)という名前を広く知ってもらおうと考えたものです(下の写真は『三省堂国語辞典 第三版』の内容見本から)。
日本語辞書の編者といえば、一般に有名なのは、まず金田一京助でしょう。すぐれた言語学者であり、文化勲章の受章者です。昔から多くの辞書に「監修」などの形で名が記され、世代を問わず、「辞書の金田一先生」として親しまれています。
しかし、辞書は監修者だけではできません。実質的にことばを集めたり、語釈を書いたりする人が必要です。多くの場合、この作業は、大人数で手分けして行います。ところが、まれに、一人の超人がすべての仕事を行うことがあります。明治時代の『言海』を編纂した大槻文彦はその代表例です。
現代にも、ほぼ独力で辞書を編纂した人がいます。見坊豪紀です。戦時中、若くして辞書の編纂に身を投じ、新聞・雑誌などから現代語を集め続けました。大学や研究所にも勤めましたが、決然退職して辞書づくりに専念。晩酌や旅行も犠牲にして、生涯にのべ140万語以上をカードに採りました。その仕事が形になったのが『三省堂国語辞典』です。
見坊の死後、『三国』の改訂作業は、何人かでの分業体制になりました。それでも、見坊の辞書づくりの精神と方法は、変わらず受けつがれています。それがどういうものであるかについては、次回以降にお話しします。
まずは、『三国』の産みの親、見坊豪紀の名を、どうか記憶にとどめてください。