お医者さんの使う用語は昔から難解だったようです。落語の「転失気(てんしき)」はそのことを扱ったもので、和尚が医師から「テンシキはございますかな」と尋ねられ、知ったかぶりをしたけれど、じつはおならのことだったという話です。
現在、国立国語研究所では「『病院の言葉』を分かりやすくする提案」をまとめているそうです。「転失気」はともかく、「陰性」「急変」などの意味を誤解する人も多いということですから、深刻な行き違いを防ぐため、意義のある取り組みと言えるでしょう。
もっとも、辞書をつくる立場から言うと、病院ならではのことばが少なくなって、辞書から消えてしまうとすれば、さびしい気もします。とは、勝手な言い分でしょうか。
『三省堂国語辞典 第六版』に新しく載ったことばに、「侵襲」というのがあります。これも病院でよく使われることばですが、ほかの辞書にはあまり載っていません。どういう意味だか分かるでしょうか。
べつに、侵略者が襲ってくるわけではありません。用例を見てみましょう。
〈脊柱管狭窄症を(体をあまり傷つけない)低侵襲(しんしゅう)手術でしたいのであれば、顕微鏡下手術という選択はあったと思います〉(『週刊朝日』2006.12.29 p.114)
「低侵襲」を〈体をあまり傷つけない〉と説明していることでも分かるように、「侵襲」は、医療行為のために、体にメスを入れたりして〈生体内の恒常性を乱す〉(大辞林)ことです。『三国 第六版』では、もっと簡単に、〈〔医〕手術などで、からだを傷つけること。「低―手術」〉としてあります。
厳密には、〈からだを傷つける〉だけでなく、薬をのませて体の状態を変化させることなども指します。でも、一般の目に触れる用例のほとんどは、手術に関するものです。「低侵襲手術」のほか、「低侵襲性手技」「低侵襲治療」「最小侵襲」「身体的な侵襲が少ない」などの用例があります。どれも、いかに体を傷つけることを少なくするかという文脈で使われています。「侵襲」は、体をなるべく傷つけたくないという医療思想とともに広まったことばだと考えられます。
ちなみに、雑誌などで「浸襲」と書いた例もありますが、これは誤字と言うべきです。校閲の方には、ぜひ、『三国』を手元に置いていただきたいものです。