1876年4月、ショールズは、ミルウォーキー市の公共事業委員会に復職しました。「Sholes & Glidden Type-Writer」の売り上げは、かんばしくありませんでした。はっきり言って、一般向けには、ほとんど売れていなかったのです。それにもかかわらず、ショールズは、新しいタイプライターの開発を続けていました。開発資金を稼ぐために、ショールズは、新聞編集者と公共事業職の両方の収入を必要としたのです。
この頃ショールズが開発していたのは、ポータブル・タイプライターと呼ばれる、持ち運びのできるタイプライターでした。新聞編集者ショールズは、新聞記者が取材先にタイプライターを持っていく時代が必ず来る、と信じていたのです。ただ、「Sholes & Glidden Type-Writer」はミシンと同じくらいの巨大さで、とても現場に持っていけるようなシロモノではありませんでした。もっともっと小さなタイプライターが必要だ、と、ショールズは考えていたのです。
そんな矢先の1877年3月11日、グリデンが病死しました。享年42。ショールズは、共にタイプライターを開発してきた若い仲間を失いました。その頃からショールズ自身も健康を害し、喀血と不眠症に悩まされます。転地療養を決意したショールズは、1877年11月、ミルウォーキーを離れ、コロラド州マニトウスプリングスへと向かいました。結核の療養地として知られる温泉街マニトウスプリングスで、ゆっくり病気を直すことにしたのです。
ミルウォーキーを離れたことは、ショールズの身体にとっては良かったのですが、タイプライター発明者としては良くない決断でした。ショールズのいない間に、ヨストとデンスモアは、タイプライターの販売権を、E&Tフェアバンクス社に売却してしまいました。しかもヨストは、その売却金を元手に、アメリカン・ライティング・マシン社という別のタイプライター製造会社を設立したのです。
また、E・レミントン&サンズ社は、ブルックス(Byron Alden Brooks)という人物と組んで、小文字を打つことができるタイプライターを開発し、「Remington Type-Writer No.2」というブランド名で、1878年1月に発売しました。この時、ショールズのタイプライターは、「Remington Type-Writer No.1」というブランド名にされてしまいましたが、大文字しか打てないショールズのタイプライターは、もはや旧モデルとなってしまいました。1878年8月、ショールズはミルウォーキーに戻ってきましたが、すでに、タイプライター時代の新たな波に乗り遅れてしまっていたのです。