しかし、ショールズのポータブル・タイプライターは、結局、発売には至りませんでした。E・レミントン&サンズ社は、タイプライター部門をスピンアウトし、新たにレミントン・スタンダード・タイプライター社を設立したのですが、新しい会社はショールズやデンスモアとの新たな取引を嫌ったのです。
しかも、レミントン・スタンダード・タイプライター社は、小文字も打てる「Remington Standard Type-Writer No.2」の販売を促進するために、「Reminton Type-Writer No.1」の中古品を下取りしました。その上で、中古品の「Remington Type-Writer No.1」のフットペダルを外し、美しいデコレーションを施した上で、「The Sholes & Glidden Type Writer」として再販売したのです。大文字しか打てないタイプライターに、もはや実用的な価値はなく、歴史的な装飾品として販売することにしたわけです。
1888年1月9日、ショールズの妻メアリーが亡くなりました。享年66。47年近くに渡る結婚生活で、夫ショールズを支えてきた女性でした。1889年9月16日には、デンスモアがブルックリンで亡くなりました。享年69。善しにつけ悪しきにつけ40年もの間、ショールズの最大のパートナーでした。
この頃、ドッジ(Horace Austin Dodge)という人物が、ショールズの所へと足しげく訪ねてきていました。ドッジは、レミントン・スタンダード・タイプライター社の顧問弁護士でした。同社の親会社となったウィックオフ・シーマンズ&ベネディクト社に、ショールズのタイプライター特許を全て譲渡させるべく、ショールズと交渉を重ねていたのです。そして1890年2月13日、ショールズはドッジの書類にサインしました。莫大なロイヤリティと引き換えに、ショールズのタイプライター特許は、ウィックオフ・シーマンズ&ベネディクト社に譲渡されました。4日後の1890年2月17日、ショールズは永眠しました。71歳の誕生日の3日後でした。翌々日の2月19日、ショールズの葬儀は、ラシーヌ通り833番地の自宅でおこなわれ、ショールズの亡骸は、フォレスト・ホーム墓地に埋葬されました。
その29年後の1919年2月14日、ショールズ生誕100年を記念して、フォレスト・ホーム墓地に、ショールズのモニュメントが建てられました。年老いたウェラーが、レミントン・タイプライター社に働きかけて、このモニュメントは実現しました。モニュメントを建てるにあたり、ウェラーはある言葉をモニュメントに入れるべきだ、と主張しました。ショールズにふさわしく「タイプライターの父」(The father of the typewriter)。そう刻まれたショールズのモニュメントは、今もミルウォーキーのフォレスト・ホーム墓地の一角で、静かに佇んでいるのです。
(クリストファー・レイサム・ショールズ終わり)