この頃になると、20歳を過ぎた息子のハーマンが、ワーグナーの仕事を手伝い始めました。父親の仕事ぶりをずっと見てきたせいか、ハーマンは勘のいい機械工で、特にタイプライターの設計に才能を見せました。ハーマンの最初の特許(U.S. Patent No. 497560)は、さすがに実用化困難なものでしたが、次の特許(U.S. Patent No. 523698)は、活字のついたアームを半円状に並べ、それをプラテンの前面に打つというアイデアで、ビジブル・タイプライターとして実現可能性の高いものでした。ワーグナーは、ハーマンのタイプライター特許を、ニュージャージー州モントクレアのワトキンス(William E. Watkins)という人物に売却しました。
そうしたところ、このタイプライターを1台作ってほしい、との注文が、アンダーウッド(John Thomas Underwood)という人物から、ワーグナーの工房に舞い込みました。アンダーウッドは、マンハッタンのビージー通りでタイプライター商を営んでおり、タイプライター・リボンを全米に売りさばいていました。顧客のワトキンスから、ハーマンのタイプライター特許の一部を譲り受けたアンダーウッドは、このビジブル・タイプライターを、ワーグナー親子に作ってみせてほしいと、もちかけたのです。ワトキンスに売却してしまったはずの特許で、ワーグナー親子自身がタイプライターを作ってみせる、というのも妙な話だったのですが、ワーグナーは、この話を引き受けました。
実は、ユニオン・タイプライター社の設立(1893年3月30日)以後、アンダーウッドの商売は徐々に傾いていました。ユニオン・タイプライター社傘下の5社(「Remington」「Caligraph」「Densmore」「Yost」「Smith Premier」)は、「純正品」以外のタイプライター・リボンを市場から排除すべく、代理店の締め付けをおこなっていました。その結果、アンダーウッドのタイプライター・リボンを取り扱う代理店が、どんどん減っていたからです。ユニオン・タイプライター社傘下の連中に一泡吹かせたい、そのためには、ユニオン・タイプライター社の息のかからないタイプライターを作り、それを売っていくことが唯一の道だ、とアンダーウッドは考えているようでした。そのためにアンダーウッドは、いくつかの工房に、新しいタイプライターの製作をもちかけていたのです。
果たせるかな、ワーグナー親子が製作したビジブル・タイプライターは、ユニオン・タイプライター社傘下の5社には、とても真似できないようなものでした。そこで、アンダーウッドは、ワーグナー親子に提案します。よければ、このビジブル・タイプライターを「Underwood Typewriter」と名づけて、全米に売りまくっていかないか、と。
(フランツ・クサファー・ワーグナー(9)に続く)