1909年5月29日早朝、山下は神戸港にいました。長谷川の遺骨を乗せた加茂丸を待っていたのです。長谷川が、東京朝日新聞の特派員としてロシアに単身赴任すべく、新橋駅を出発したのは、前年(1908年)6月12日のことでした。出発前日の長谷川の様子を、山下は、こう回想しています。
しかし今度露国へ往くときには、氏の政治思想も余程穏健になって居ました。出発の前日首相官邸で―ちょうど私が秘書官をして居た時分ですが―逢った時、氏の語ったところによると、その穏健な思想が十分発揮せられて居たようです。氏の云うには、大戦争も済んで結構ではあるが、今後は余程大事に考えねばならぬ。露国の主戦派は頻りに日本に対して後図を画して居るようであるが、若し主戦論を主張するものが増加して、日露再び砲火の間に見ゆるが如きことになると、彼にとっても憂うべきことである。であるからこう云うことは打忘れ、日露相提携して、互いの福利を計ることに勗めねばならぬ、此を為すには双方の事情が十分に疎通して居らねばならぬが、現在に於いては、不幸未だその域に達して居ない。で、自分は此の間に立って及ばずながら、微力のあらん限りを尽して、意思疎通の媒介者たる任を尽したいと、こう云って居ました。即ち日露両民族の前途を憂慮して衝突の無いようにしたいと云うのが氏の畢生の抱負であったのです。
しかし長谷川は、ロシアで肺病にたおれ、4月9日、ロンドンから日本郵船の加茂丸に乗船、帰国の途につきました。寒いシベリア鉄道より暖かいスエズ航路を選んだのですが、それでも船上で容態が悪化、5月10日、ベンガル湾洋上で逝去しました。加茂丸は5月13日、シンガポールに入港、長谷川の棺は国旗で包まれ、シンガポール郊外のパシパンジャンで火葬されました。戒名、二葉亭四迷。故人のペンネームが、そのまま戒名となりました。ただ、それは、あるいは長谷川の望むところではなかったのかもしれません。山下は、こう回想しています。
こう云う風に氏の望むところ欲するところは、主として東亜の経営と云う政治上の問題にあったので、文士などと云われることは、嫌で嫌で堪らなかったのです。此に就いては一寸面白い話があります。あるいは日向君が云って居るかも知れませんが、例の西園寺首相の文士招待会の時なども、氏は無論招待を受けた一人ですが、何故か出席しませんでした。その後氏に会うと、氏は突然、君は僕が文士でないことを知って居ながら、何故文士だなどと云って僕を招待したのだと、非常な権幕で食って懸るのです。で、私は君は自ら文士でないと思っているか知らぬが、世間は夙に文豪として君に尊敬を払って居る。又実際の事を云っても、君の文章、君の小説は、句々珠をなし、筆を下す処、字々ことごとく錦繍ならざるはない。文士と云って何の差支えがある。よしや百歩を譲って君の志す処は経営にあるとした処で、欧米に於いては経国済民の大家にして文士を兼ぬるものが多いことは、君も知って居る通りだ。文章は経国の大業で、文士のその職に忠なるもの程、世に尊敬すべきものはない。だから文士として君を呼ぶに何の不都合があると、畳みかけると、氏は答えて云うに、成程それはもっともだ。しかし僕の志は文士たるにあらずして、おのずから他に存す。志の成った後に、文士の名を受けることは甚だ名誉なことであるが、僕はまだその志の十が一をも達して居ない。然るにその本志本願でない所の文士の名を受けることは、残念だと云って、その意見をまげませんでした。
(山下芳太郎(18)に続く)