【発言者】定延利之
瀬沼さんのお話をうかがって,「若者たちが口にする「キャラ」」について,改めて考えてみる必要があると思うようになりました。
いま日本にはさまざまな分野で,さまざまな論者たちが,さまざまな「キャラ」論を展開していますが,それらは大きく三つに分けることができると私は考えています。
第1の「キャラ」は,英語の“character”に訳せるような「登場人物」の意味の「キャラ」です。第2の「キャラ」はマンガ論の中で伊藤剛氏が提出した「キャラ」で,これを第1の「キャラ」とはっきり区別するために伊藤氏は“Kyara”という綴りを当てはめています。そして第3の「キャラ」は,日本のことばやコミュニケーションを分析するために私が使っている用語です。第2の「キャラ」つまり伊藤氏のKyaraは,分野を超えてさまざまな論者にインパクトを与えてきましたが,このKyaraを拡大適用して日本語社会を分析しようとする試みは,(その試みの意義自体は別として)どうにも無理があるのではないかということを私は述べてきました(補遺第84回~第87回)。これは,日本のことばやコミュニケーションを分析するには,第1・第2の「キャラ」とは別の概念が必要だということです。この認識のもと,私は日本語話者たち,特に若者たちが日常生活の中で口にする「キャラ」に目を付け,専らこれを意味する専門用語として自身の「キャラ」を定義しました。匿名性の高い電子掲示板・2ちゃんねるに,「オレは実は学校とバイト先でキャラが違うんだ」と書き込んだり,「この人たちと一緒にいると,私はいつのまにか姉御キャラになってしまって,若い男の子たちが寄ってこない。悲しい」とブログでぼやいたりするような「キャラ」,これが第3の「キャラ」です。私はこれを「本当は変えられるが,変わらない,変えられないことになっているもの。それが変わっていることが露見すると,見られた方だけでなく見た方も,それが何事であるかわかるものの,気まずいもの」と定義しています。
第3の「キャラ」の最大の特徴は,これが研究者によって作り出されたものではないということです。これを作ったのは日本語社会に暮らす人々,特に若者であり,私はただそれを専門用語として採用しただけ,と考えていたのですが,しかしながら瀬沼さんのお話をうかがうと,若者たちが語る「キャラ」には広がりがあり,私が定義したのはその一部ということになりそうです。
瀬沼さんのお話をうかがって私が感じるのは,若者たちの語る「キャラ」には,「主人役」「笑いを誘う道化役」「わざと議論を挑む敵役」のような,山崎正和『社交する人間 ホモ・ソシアビリス』の「役割」(本編第36回)と近いものがあるということです。これは,若者の語る「キャラ」は,「キャラ」という名称はともかく実質だけを考えれば,昔から意識されてきたものとあまり違わない場合もあるということでもあります。私は若者の「キャラ」のうち,新しい部分にかぎって目を向けているけれども,瀬沼さんはとにかく全般をおさえようとされている,そんなことを感じますがどうでしょうか。