【発言者】定延利之
宿利さんが問題にされていることは,宿利さん一人にかぎった話ではなく,人間社会に広く見られることだと思います。「A子ちゃん」に対する宿利さんの違和感が,宿利さんの思い過ごしによるものであろうとどうであろうと,人間は他人を「偽者だ」と見てしまうことがあるということです。というのは,宿利さんのような「身を削った」告白はさすがにあまりないかもしれませんが,同様の「偽者認定」の例は,身近な文学作品にもよく見つかるからです。
たとえば,宮尾登美子の『寒椿』では,娼館の新経営者としてやって来た「若い男」が,娼妓たちの前で「小柄な躰を聳(そび)やかして威厳を作った」のですが,娼妓たちの尊敬を勝ち得ず,まもなく消えてゆきます(本編第13回)。ソビヤカシを見せられた娼妓たちの頭には,「偽者」の二文字が浮かんでいたのではないでしょうか。
またたとえば,山本周五郎の『おたは嫌いだ』には,奪われた恋人を返せと「若旦那がきいきい声で叫んだ」というくだりがあります。恋人の奪還に挑む勇猛果敢なイメージが「きいきい声」の部分でしぼんでしまうとしたら,これも「偽者」らしさの現れでしょう(補遺第35回)。
いま取り上げた事例では,「若い」「小柄」「きいきい声」といった「偽者認定」の手がかりがあったわけですが,そのような手がかりが描かれない場合もあります。
谷崎潤一郎の『細雪』(中巻)では,奥畑という,ゆっくりしゃべる大家の若旦那が,たしかに事実として大家の若旦那,つまり坊ちゃんではあるけれども,坊ちゃん特有の余裕ある様子を醸し出そうとして,わざとゆっくりしゃべっているのだと,幸子に決めつけられ,嫌われています(本編第3回)。また,かつて仕えた主人の家が洪水だと,大阪から芦屋に一番に見舞いに駆けつけ,主人の無事に安堵して涙ぐむ,忠義者を絵に描いたような庄吉の姿は,幸子には,芝居好きが忠義者ぶって自己陶酔しているものとして冷たく切り捨てられています(本編第18回)。これら二人の男性を幸子がどのような手がかりで「偽者」と認定したのかは,描かれていません。
手がかりがないとされつつ,「偽者」と疑われる場合もあります。志賀直哉の『暗夜行路』では,「善良そのもの,正直そのもの,低能そのもの」の植木屋が,出されたお茶を押し頂いて飲む様子を見て,謙作は「然(しか)し見た通りが本統だろうか?」と,「眼(め)に見えない一種の不自然さ」を感じます(本編第38回)。
以上のような,時には「なんとなく」としか言いようのない,「偽者認定」がしばしばなされること,それは事実であって,直視しなければならないと思います。
宿利さんの言うとおり,ポライトネスというのは「人間関係がこのようになってしまわず,こうなるように,これこれこのように配慮する」という,意図のレベルの話ですよね。たとえば娼妓たちが新経営者について「いくら体をソビヤカシだって,こいつって偽者じゃん」と感じるような,新経営者の意図的な振る舞いを越えたところにある「人物論」は,ポライトネスではどうしようもないと思います。どうしようもないといっても,ポライトネス論をおとしめるわけではなくて,ポライトネス論をポライトネス論として正しく理解しようとすると,「何でもポライトネス」というわけにはいかない,ということですが。