漢字の現在

第22回 「から揚げ」

筆者:
2008年10月3日

中国から留学しに来た大学院生が問う。

「「唐揚げ」の「唐(から)」の由来についてですが、やはり中国と何らかのつながりがあるのでしょうか?」

から揚げ

彼女は、中国では、魚や豚を油で揚げたものは食べたが、鶏肉のそれ(炸鸡 炸鶏 zha2ji1)はケンタッキー(中国では「肯德基」)でしか食べなかったとのこと。中国は広いので一概には言えないが、「油淋鶏」(ヨウリンジー 油林鶏)などはあっても、少なくとも「唐揚げ」はあまり一般的な中国料理ではなさそうだ。日本に来てから「唐揚げ」という表記と食品を見かけるようになったとのこと。私もこの夏、1週間ほど上海周辺に滞在したが、確かにその間、それらしいものは豚のから揚げのようなものが1度出てきただけだった。日本では「唐揚げ」が本格的な中華料理のように振る舞われることもある。

日本で「からあげ」は、確かに「唐揚げ」と書かれることが多いが、実は「空揚げ」という表記もある。

「お決まり」の「google」で検索をかけてみると、

 “唐揚げ” の検索結果 約 4,520,000 件

 “空揚げ” の検索結果 約 101,000 件

となっていた。WEB上では、「から」の部分を仮名にしたものが少なくないが(“から揚げ” の検索結果 約 2,690,000 件)、漢字では「唐」が「空」の45倍くらいも多く、圧倒している(2008.9.15現在)。

また、表記に規則を設けて、それを紙面でおおむね実行している新聞ではどうだろう。日本新聞協会では、「唐揚げ」を使わずに「空揚げ」で統一する、と明示している。最新の『読売新聞用字用語の手引』改訂新版でも同様だ。

しかし、近頃の「読売新聞」を見ていると、「空揚げ」だけでなく、やはり「唐揚げ」も記事の中に見られ、さらに新聞紙上の半分近い面積を占める広告欄では「唐揚げ」が優勢のようだ。宣伝用のチラシとほぼ同様に、スポンサーの表記がそのまま現れた格好であろう。

このように、「から揚げ」には、メディアによって表記に差が生じている。先の新聞記事のための表記の規則は、辞書の記述を根拠とするようである。表記の規範と意識されることが多い国語辞書を開くと、『広辞苑』第6版では、本文中には「唐揚げ」という表記も示しているが、見出し表記は「空揚げ」だけとなっている。

そもそも、「から揚げ」は、衣が無いか少ないところから「空」と呼んだものだ、と説明されるものであり、「唐揚げ」よりも「空揚げ」の方が歴史も古いようだ。辞書では「空揚げ」が正式な表記としてしばしば採用されているのである。『三省堂国語辞典 第六版』では、両方示すもののやはり「空揚げ」を先に掲げている。なお、『明鏡国語辞典』はそれを逆転させ、さらに「空揚げ」のほうを括弧書きにしている。

そうしたものを規範とする意識が一般に強いためであろうか、漫画でもたとえば「若鶏の空揚げ」(セリフ 『おおきく振りかぶって』第9巻)とある。これは手書きの部分でもそのように書かれているので、作者が実際にそう記していたものであろう。

さらに、マスメディアではなく、若い人たちの使用実態をうかがうために、女子短期大学で、「から揚げ」をどう書くか、簡単なアンケートをとってみた。

唐揚げ 53人 : 6人 空揚げ

やはり「唐」が圧倒している。合わせて、「この「から」は何だと思いますか?」と尋ねてみたところ、

中国:唐「から」のとり

「から」い、しお「から」い

卵の「から」とかの「から」

「から」っと揚げる、カラカラした衣

「軽」く揚げるから

「空」っぽ

といった回答があり、「唐」「空」以外の意識もいろいろと見られたが、辞書通りの「正解」者はなかった。以前、テレビのCMで「カラッと揚がる」という宣伝文句もあったが、一つの語は運用を通じていろいろな解釈が個々人になされるものだ。

衣をあまりつけないという語義から見て正しいのは「空」だと言っても、字面が「空揚げ」では確かにマイナスの印象になりかねない。戦前に見られた表記の「虚揚げ」ではなおさらであろう。それを「唐揚げ」とすることで、中華風だからだな、などとイメージが格段に違ってくる。豪勢な中華料理にさえ見えてこよう。細かな差にこだわり、日本化をためらわない日本人らしい現象だ。

実際に街中で見かける表記は、「唐揚げ」がほとんどで、食堂のメニューでも同様である。それは購買意欲を引き出すための知恵なのでもあろう。WEBで検索すると上位に来て、学生が重宝がる傾向のある「Wikipedia」では、「唐揚げ」は、「その名の通り、中国(唐)から伝来した調理法であり戦後の中国からの引揚者が広めたと考えられる」とさえ記されている。俗解の一つなのであろうが、それが人々の心理的な需要に合致したために支持され、ワープロの変換候補にまで挙げられるようになったのだ。日本料理の流入が進む中国でも、そのまま「唐扬」(tang2yang2)という表記が見受けられるようにもなっている。

WEB上では、ついにブログなどに「「空揚げ」って何?」とか「「唐揚げ」のことを「空揚げ」と書き間違えるなんて…」とかいう書き込みも見受けられるようになっている。こうした趨勢の中で、新聞界でも実際には、記者が原稿に「唐揚げ」と打ってきたが直そうかそのままでいこうか、と迷うところなのだそうだ。当て字は良くないからと迷った挙げ句に、無難に「から揚げ」と平仮名にしておこう、ということも少なくない。

最後に、同じく「から」を含む語として、「から揚げ」とは一見関連がなさそうな拳法の名に「空手」がある。これは、元は中国から伝来した武道だといわれ、本来は「唐手」であったが、中国のイメージを払拭したり、仏教の「空」(クウ)を含意させたりしようとして「空手」という表記に変えられたのだそうだ。

「からあげ」と「からて」という別の語において、それぞれの「唐」と「空」という漢字が互いに表記の中で入れ替わったことになる。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』
『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究により、2007年度金田一京助博士記念賞に輝いた笹原宏之先生から、「漢字の現在」について写真などをまじえてご紹介いただきます。