漢字の現在

第63回 「円」ではなく、金偏によるお金の漢字

筆者:
2010年4月29日

中国は、他国の貨幣単位であっても、自国の「元」を用いて表現し、中国語でそれを発音しようとする、いわば集約化の傾向があることを前回、確かめた。

それに対して韓国は、現地つまり相手国の音を、それが固有語であろうと漢語であろうと語種や出自を問わず、すべて外来語のように扱って、ハングルで表記するという明確な立場をとっているのであった。漢字を介在させれば、その判断にも迷いが生じるところがあったのだろう。多様化を容認する態度とも見えるが、そこには徹底した漢字離れの状況が反映していたのである。

さて、日本は、どうだったであろうか。中国に対しては「元」と漢字表記をして「ゲン」と日本漢字音で読む。すなわち自国漢字音尊重主義である。一方、漢字を使わなくなってきた韓国に対しては、「ウォン」とカタカナ表記をし、そのまま「ウォン」と読むという相手国漢字音(現地発音)尊重主義となっている。つまり態度に使い分けが生じており、中国と韓国とのちょうど中間の方法をとっていることになる。日本は何ごとにつけ、曖昧というと何も分からなくなってしまうが、外来の事象を自己の独自のフィルターを通してなるべく自国へと取り込み、そこで細分化して、各々に意味やイメージの付与を行うという、多様性を広げていく方向を選ぶようだ。

これは、漢字圏において、互いの姓名をどのように表記し、いかに読むか、呼ぶかという、歴史的な事情もかかわる問題の根底に潜んでいる、無意識化した慣習なのであろう。


さて、中国では、タイのバーツ(บาท 記号 ฿)を「銖」(zhu1 ジュー)という漢字で表すことがある。タイ語は、中国語と系統的には類縁関係にあるともいわれ、種々の共通点が見られる。「タイ」も「泰」や「イ+泰」などの字がそれぞれ近似の発音によって当てられることがあるが、そもそも漢語の「大」と同源だと説かれることもある。言語類型論では「シナ(漢)・タイ語派」が示されたことがあるように、実は互いに共通性をもつ近い言語であるが、タイ国ではインド系の文字を使用しており、両者の関連は意識されにくくなっている。一方、タイ系の少数民族には、中国でもベトナムでも漢字を改めた独特な文字を用いているものがあり、漢族や京族に近い印象を得かねない。こういった点からは、やはり文字が言語や民族の本質を覆い隠してしまう危険性を、一端ながらうかがうことができよう。

この「銖」という字では、現地タイ国での発音から遠く、意味も単位は単位でも元々中国では重さを表していた。これによく似た「金+末」という造字を、以前、中日辞典で見かけ、中国では他国の貨幣単位を音訳するために、漢字をわざわざ造っていることに、必要から生まれたものとはいえ驚いたものだ。広東語の発音がベースにあったのだろう。これこそ、「銖」の元の姿だったのでは、と思えてこないだろうか。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』
『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究により、2007年度金田一京助博士記念賞に輝いた笹原宏之先生から、「漢字の現在」について写真などをまじえてご紹介いただきます。