タイプライターに魅せられた男たち・第68回

谷村貞治(8)

筆者:
2013年1月17日

ところが、第一ホテルの仮事務所に、陸海軍や軍需省からの連絡は全くありませんでした。蒲田工場の再建もままならず、軍からの電信機の受注も宙に浮いてしまっている以上、谷村は、新興製作所の事業継続は、もはや不可能だと判断していました。さらに1945年8月10日には、花巻が空襲を受けます。花巻城址の新工場は無傷だったものの、花巻の市街地にあった旧花巻工場は罹災しました。情報が混乱する中、谷村は、新橋の第一ホテルで、8月15日の敗戦を迎えることになったのです。

翌月、谷村は妻と共に、花巻温泉の別荘に引きこもっていました。新興製作所の花巻工場も閉鎖し、49歳の谷村は、そのまま隠居を決め込むつもりだったようです。でも、戦後復興の波は、それを許してくれませんでした。この時のことを、谷村はのちにこう回想しています。

花巻温泉の別荘を借りて休養しておったところが、ある日、郵政省……当時はまだ逓信省ですがそこの役人が私を訪ねて来た。逓信省で色々戦災復興といいますか、全国の通信機関の復興五ヵ年計画というものが出来た。その頃まではモールス符号で通信をしておったんです。電文などもそれを翻訳して書いて配達していましたね。そこで復興のついでに文字がそのまま打電出来る印刷電信、今のテレタイプに切り換えることが必要になったんですね。そこでその係官が私にその計画書を見せ「これはあんたでなければならん仕事だ」と言うんです。その計画書を見ますと非常に多量の電信機械が要るっていうんですから。

実際には、当時の逓信院から提示された計画は、新興製作所と黒沢商店・沖電気・富士通信機製造を合併して、印刷電信機すなわち遠隔タイプライターを、年間1000台生産というものでした。谷村は、しかし、この計画を拒否しました。合併ではなく、新興製作所に年間1000台まかせてくれるのなら、引き受けると返答したのです。黒沢商店の蒲田工場も、沖電気の芝浦工場も、富士通信機製造の川崎工場も、空襲で大ダメージを受けたはずです。でも、新興製作所の新しい花巻工場は無傷です。遠隔タイプライターの設計図も残っています。技術者を集められるかどうかはわかりませんが、花巻ならば、報国隊の旦那方や、女子挺身隊の女工さんは集められるはずです。

1945年10月1日、谷村は、新興製作所を再スタートしました。蒲田工場を捨て、花巻工場だけでの再出発です。蒲田で働いていた工員たちは、あまり花巻には来てくれなかったものの、復員してきた若者たちが、仕事先を求めて集まってきました。それに加えて谷村は、逓信院やその後に復活した逓信省から、若手技術者を新興製作所に引き抜き、鳥海登や小川注連男が花巻にやってきました。遠隔タイプライターを年間1000台生産という目標は、かなり途方もないものでしたが、それでも谷村は新たな目標に向かって邁進しはじめたのです。

谷村貞治(9)に続く)

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

https://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

近代文明の進歩に大きな影響を与えた工業製品であるタイプライター。その改良の歴史をひもとく連載です。毎週木曜日の掲載です。