長徳2年6月に里邸二条宮が焼失して以降、記録類に定子の記事が再び現れるのは、長徳3年6月22日の職曹司(しきのぞうし)参入の記事からです。それに先立つ3か月前、東三条院詮子の病気平癒のために大赦が行われ、伊周・隆家の罪も許されることになりました。長徳3年4月に、まず隆家が入京し、伊周は同年12月に入京することになりますが、そのような情勢を受けて定子の謹慎も解けたものと思われます。
それでも定子が大内裏の職曹司に参入することについて、世の人々は快く思わなかったと『小右記』には記されています。長徳の変の騒動で定子が一度髪を切っていることが問題になったのです。しかし、中宮方では定子は出家していないと主張し、職曹司参入を果たしたようです。この時、定子参入を後押ししたのは、一条天皇だったのではないでしょうか。長徳2年12月に生まれた第一皇女も6ヶ月の可愛い盛りになっていたはずです。
職曹司は中宮に関わる公務を司る役所です。実は、定子はこれまでにも何度かここを臨時の滞在場所として利用してきました。しかし、今回は2年強にわたる長期間の滞在になります。この間の定子後宮の出来事を扱った章段が『枕草子』に9段もあり、職曹司時代の章段群を形成しています。そのうち、参入して間もない頃のものと思われる一段を見てみましょう。
職御曹司におはしますころ、木立などのはるかにものふり、屋のさまも、高うけ遠けれど、すずろにをかしうおぼゆ。……近衛の御門より左衛門の陣にまゐりたまふ上達部の前駆ども、殿上人のは短ければ、大前駆、小前駆とつけて聞きさわぐ。あまたたびになれば、この声どももみな聞き知りて、「それぞ、かれぞ」など言ふに、また、「あらず」など言へば、人して見せなどするに、言ひ当てたるは、「さればこそ」など言ふも、をかし。
(中宮様が職御曹司にお住まいのころ、そこは木立が鬱蒼と茂り、建物の様子も高くてよそよそしいのだが、なぜか妙に面白く感じられる。……大内裏の近衛門から内裏入口の左衛門の陣に参上なさる公卿の前駆たちの声が聞こえ、それより殿上人の前駆の方が短いので、女房たちは、それぞれ大前駆、小前駆とつけて聞きつけて騒ぐ。それが何度も重なると、誰の前駆の声かを皆聞き分けて、「それは誰よ、彼よ」と言うと、別の女房が「そうじゃない」と言うので、人をやって確かめなどするが、言い当てた女房は、「だから言ったでしょう」など言うのも面白い。)
職曹司は住み慣れた寝殿造りの建物と異なって、背が高く物慣れない感じがするのですが、それがかえって面白いと作者は記しています。また、大内裏から内裏に参上する男性貴族たちの先払いの声が聞こえてくる位置にあるので、宮中に出入りする人々の動きを間近に感じることができます。滞在が長期にわたったために、女房たちは先払いの声が誰の従者なのかを聞き分けるまでになっています。
それにしても女房たちの騒ぎようは尋常ではありません。この後、有明の月が照らす庭に下り立った女房たちは、さらに内裏の左衛門の陣まで探索に行くという大胆な行動に出ます。その時、ちょうど退出してきた殿上人たちと鉢合わせして大慌てで逃げ帰り、職曹司で殿上人たちに応対します。これに続く章段末尾は、殿上人が昼も夜も絶えることなく職曹司を訪れ、上達部まで訪れたという文章で閉じられます。この末尾からは何となく不自然な印象を受けるのですが、それは、中関白家隆盛時ならあえて書かなくていいことだったからです。逆に言えば、そこに没落期の定子後宮を盛りたてようとする作者の気概が感じられるのです。