「百学連環」を読む

第116回 学術に才識あり

筆者:
2013年7月5日

人が学術を営もうという場合、そこにはどういった性質や能力が関係しているのかという話が続きます。

其學術に供するに區別あり。skill 及ひ sagacity なり。才は材と同しき字にして、木の片枝を切り落したる形ちなり。凡そ木を切り倒し枝を打ち幹となし、而して事に付物に從ふて用立つ、是を才と云ふ。
 識は、知ることの多く重りたるを學とし、學に長するを識とす。識は智の重りなり、智は知の下に白の字を以てすれは知ることの明白なるを云ふなり。

(「百學連環」第44段落第5文~第45段落第2文)

 

このくだりのうち、skill には「才」、sagacity には「識」という字が左側に振られています。訳すとこうなりましょうか。

その学術に関わることについては区別がある。才(skill)と識(sagacity)である。「才」とは「材」と同じ字であり、「木」〔という字〕の片方の枝を切り落とした形だ。つまり、木を切り倒して、枝を打って幹にする。そして、物事に付き従って役に立つ。これを「才」と言うのだ。
 他方の「識」はなにか。知ることがたくさん重なると「学」になり、学が長ずれば「識」となる。「識」は「智」の重なったものであり、「智」は「知」の下に「白」という字を置いてつくられている。つまりは、知ることが明白であることを指している。

skill と sagacity が「才」と「識」という字で訳されています。現代語訳でも、そのままとしたのは、これらの漢字のつくりに話が及ぶためです。現代なら「技量」や「賢明さ」とでも訳すところでしょうか。

さて、「才」と「識」という字は、組み合わせれば「才識」です。西先生が「才」は「材」と同じ字だと指摘しているように、古くは「材識」とも書いたようです。「才識」とは、「才知(才能と知恵)」と「識見(学識と意見)」のこと、という具合に意味を調べてゆくと、関連する漢字が芋づるのようにつながって出てきます。

ご覧のように、ここでは漢字のつくりに議論が及んでいます。「才」が「木」の枝の一方を払ったものだとは、考えてみたこともありませんでしたが、言われて形を見るとたしかにそう見えます。私には、この漢字の解釈がどこまで妥当なのかを判定する手立てがありませんが、比較のために、例えば白川静の『字通』を覗いてみました(お手元にある方は、別の字書もぜひ比較してみてください)。「才」という字の形については、こんな説明があります。

標木として樹てた榜示用の木の形。(略)もと神聖の場所を示し、それより存在するもの、また所在・時間を示す字となる。金文に「正に才(在)り」「宗に才(在)り」のようにいう。存在の最も根源的なものであるから、天地人三才、また材質・質料をいう。それで人の材能をも意味する。

(『字通』、平凡社)

 

西先生の説明とは異なっていますが、「才」の字が「標木」として使われているということは、自然に生えた木ではなく、それを加工したものであります。その水準では、似た方向を指しているようです。また、「三才」については、第20回「書物としての「エンサイクロペディア」」でも、「森羅万象を天と地と人の三つの要素「三才」で分類する知の枠組み」であると述べたところでした。「才」は要素、材料でもあるというわけです。

「識」のほうはどうでしょうか。「知」⇒「学」⇒「識」という三つの要素の関係が示されています。これも、文字の並びから連想すれば、「学識」という言葉があります。「学識」とは、「学問から得た、物事を正しく見分ける判断力」(『日本国語大辞典』)という意味であることを考えると、ここで西先生が言っていることも腑に落ちます。加えていえば、三つの言葉の真ん中にある「学」を省略してつなげたものが「知識」となることにも注意してみたいと思います。

また、「識」とは「智」の積み重なったものだとも指摘していますね。ここでも漢字のつくりに言及されています。再び参考までに『字通』を繙いてみると、「智」の字はこんな具合に解説されています。

字の初形は矢+干+口。矢と干(盾)とは誓約のときに用いる聖器。口は(略)その誓約を収めた器。曰は中にその誓約があることを示す形。その誓約を明らかにし、これに従うことを智という。知に対して名詞的な語である。(略)字を白部に属するのも誤りである。

(『字通』、平凡社)

 

なるほど、字のつくりをこのように捉えると、「智」はモノの姿を現しているというわけです。「知」が「知る」に通じる動詞的な言葉であるのに対して、「智」は名詞的であるということなのでしょう。白川先生は、「字を白部に属する」とするのは誤りであると断定しています。

いずれが妥当なのか、あるいは両者とは別の見立てのほうがいっそう真理に近いのか、私には判断する(それこそ)材料がないのですが、「智」の解釈については、西先生と白川先生とで相当違っているようです。

いずれにしても「才」と「識」とについては、これに続いて東西の例を引きながら説明が続きます。それぞれが、学術とどのように関係しているのか、西先生の説明を待つことにしましょう。

筆者プロフィール

山本 貴光 ( やまもと・たかみつ)

文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(//d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/
twitter ID: yakumoizuru

『「百学連環」を読む 』

編集部から

細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
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