前回の『ショコラ』の例は,意外なようですが,チョコレートの味そのものについてはほとんど何も語っていません。唯一,「かすかな苦味」がチョコレートの味を直接的に形容するだけです。
「上品なワインが薫るように」(”like the bouquet of a fine wine”)や「コーヒーの芳醇さ」(”a richness like ground coffee”)といった直喩は,ほかの食べ物の味を引き合いに出しますし,性に対する暗示も同様にチョコレートの味から読者を巧みに,そして悩ましげに遠ざけます。
「唇が触れるとわずかに抗い」や「鼻腔を豊かに抜ける」などの表現は,触覚や嗅覚に訴えます。チョコレートの味わいを巧みに語ったはずの先の例は,実は,当該の味覚に対する表現を避けることで生まれたのです。表現しづらい味覚体験を直接的に表現するのではなく,脇から攻める戦法です。
この方法をさらに推し進めると,味覚経験の行為に直接には言及せずに,時間的にその前後に当たる行為を叙述する,というやり方が考えられます。つまり,食前と食後に焦点を移すわけです。
そこで,今回は食後に焦点を置いた表現を取り上げ,次回は食前の作業に着目する表現を扱います。
まずは食後編です。
次の例は,辺見庸の『もの食う人びと』から採りました。世界中の食に関するさまざまな局面をあぶり出して,出版当時,かなりの話題になった本です。
(51) こうして旅をしていると,世の中にはたしかにいろいろおいしい食べものがあると思う。
「これは死ぬほどうまい!」と世界中に叫びたくなるほどのものは,しかし、そうはない。
その,めったにないことに,今回ついにめぐりあえた。ほっぺたが落ちる、あごが落ちるどころではない。おいしさに体が震えた。舌が踊り,胃袋が歌いだした。生きてあり,もの食うことの幸せをしみじみ確かめた。それは,一杯の熱いスープだった。
食べた直後のからだの反応を畳み掛けるように記述することによって,その味がどれほどおいしかったのかを伝えています。
「ほっぺたが落ちる」と「あごが落ちる」は,慣用的な誇張表現です。あまりにおいしいものを食べた結果,頬やあごが落ちる。そういった原因と結果の関係を機軸としています。「ほっぺたが落ちる」にそれよりも誇張の度合いがやや強い「あごが落ちる」を続けてから,問題のおいしさはこれら慣用表現の及ぶところではないと主張します。
そして,それらよりもさらに大きな身体反応を表わす「体が震える」をその後に配置する。さらには,美味の度合いを強調する身体反応の締めくくりとして,「舌が踊る」と「胃袋が歌う」を重ね,虚構の段階をさらに強めます。
最後に,「生きてあり,もの食うことの幸せをしみじみ確かめた」と,この味が身体的な反応に終わらず,精神的にも人間存在の根幹に触れるものであったと記して止める。
ここで作者は,スープの味そのものについては何も言及していません。通りいっぺんの表現ではじゅうぶんに形容できないおいしさを伝えるため,当のスープが彼の身と心に及ぼした食後の反応を,誇張の度合いを次第にエスカレートさせながら連ねます。そうすることで,それに先立つおいしさを伝えるのです。
さて,「「これは死ぬほどうまい!」と世界中に叫びたくなるほど」のスープ,ポーランドの「ボグラッチという,見た目にはどうということもない,茶色い,具だくさんの田舎スープ」だったそうです。
つらく不安な炭坑の労働を炭まみれになって体験し,シャワーでは「口から,黒い汁をタコみたいに吐きつづけ」る。その後,鉱員クラブの食堂でまずビールを飲む。すると,「からだに一筋涼しい水脈ができた」気になる。
そうして作者自身の用意がすっかり整ってから,いただいたそうです。「さっきまで炭塵で真っ黒だった舌に」しみ込む味。そりゃあ…,死ぬほどうまいでしょう。
暑い日が続きますね。1日の終わりに,涼しい水脈をひと筋,ふた筋(?)作るのもいいかもしれません。
暑中お見舞い申し上げます。ご自愛ください。