デンスモアは弟エイモス(Amos Densmore)とともに、オイル・クリークの精油所で、石油の輸送に携わることにしました。オイル・クリークには、その名のとおり小さな川が流れており、そこに小船を浮かべて、石油樽を輸送するのです。小船に積まれた石油樽は、オイル・クリークを南下し、アルゲニー川との合流点で蒸気船に積み換え、さらに南のピッツバーグを目指します。合流点の町は、いつしか「オイル・シティ」と呼ばれるようになっていました。
石油樽はピッツバーグで貨車に積み換えられ、ペンシルバニア鉄道を東へ、ニューヨークを目指します。デンスモア兄弟の取引先は、同郷ウッドコック出身のローデブッシュ(Clinton DeWitt Roudebush)という人物で、頻繁にニューヨークとピッツバーグと「オイル・シティ」を往復していました。
建設中だったオイル・クリーク鉄道は、1862年10月、タイタスビル~コリー間を完成しました。コリーから東へは、エリー鉄道がニューヨークまで伸びていたので、これで、オイル・クリークのすぐ北側の村タイタスビルから、コリー経由で直接ニューヨークへ、石油樽の鉄道輸送が可能になったのです。デンスモア兄弟は、1863年7月18日にデンスモア・オイル社を立ち上げ、石油輸送ビジネスを拡大することにしました。また、デンスモアはこの頃、二人目の妻アデラ(Adella Ryan Barron)と再婚しました。
石油の輸送量を上げるにあたって、デンスモア兄弟が考えたのは、石油樽を使わない鉄道輸送でした。石油樽を使うと、どうしても積み込みに手間がかかります。むしろ、貨車そのものに石油タンクを作りつけておき、タンクに直接石油を流し込むことにすれば、大量の石油を輸送できます。そのためには、タイタスビルまで来ているオイル・クリーク鉄道を、オイル・クリークの石油工場内に引き込む必要がありますし、専用の石油タンク車を作らなければいけません。
オイル・クリーク鉄道は1864年7月までに、オイル・クリーク西岸のミラー工場とシェーファー工場の中へ、線路を延長しました。デンスモア兄弟は、石油タンク車の開発をおこない、そして、南北戦争終結後の1865年9月、オイル・クリークからニューヨークまで、石油タンク車による石油輸送を開始しました。鉄道による本格的な石油輸送時代の幕開けでした。
(ジェームズ・デンスモア(4)に続く)