タイプライターに魅せられた男たち・第59回

黒沢貞次郎(12)

筆者:
2012年11月8日

この時の様子について、逓信省の鳥海登は、のちにこう回想しています(『電気通信』1951年5月号66頁)。

ぼくが一ぺん黒沢さんのところに行きましたとき、第一回の試作品としてはよくできておりましたが、これを試験されるのに島田さんが入ってきてやるのですが、これは実に辛辣にやるのですね。熱心ですから遠慮会釈なくやる。島田さんはハンチングを当時被っていましたから、「鳥海さん、島田さんがハンチングを被ってここでやっていると、刑事に何かされているような気がする、ロングランテストを何時間もやられると自分をせめられるような気がする」ということをよく云ってました。

1934年10月、黒沢と松尾は、国産「和文印刷電信機」の新たな試作機を、島田に提出しました。送信機に関しては、既に完成の域に達していて、逓信省は送信機10台を黒沢商店に発注、回線の増強をおこなうことにしました。しかし、受信機に関しては、耐久性がまだ不十分だと、島田は考えていました。島田は、さらなる改良を黒沢に求めたのです。

1936年10月、やっと黒沢は、島田が納得する「和文印刷電信機」の完成にこぎつけました。ウェスタン・エレクトリック社やテレタイプ社の有する特許を回避すると、どうしても十分な耐久性が得られなかったため、一部の特許が切れるのを待って、完成にこぎつけたのです。部品は全て国産で、組立も全て蒲田でおこないました。純国産の「和文印刷電信機」の完成です。ほぼ1年に渡る試験期間を経て、1937年11月3日、国産「和文印刷電信機」は、東京~大阪間の回線で、実運用に供されました。

この頃、日本とアメリカの関係は、最悪とも言える状態になっていました。1937年7月7日の盧溝橋事件を発端として、10月5日にはシカゴでルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt)大統領が「世界を蝕む病人は隔離すべきだ」と演説し、事実上、日本への経済封鎖を容認しました。アメリカから、タイプライターや「和文印刷電信機」を輸入することは、もはや不可能となってしまったのです。1938年9月30日には、国際連盟が対日経済封鎖を決定し、日本は国際社会から完全に孤立しました。これに対し、近衛文麿内閣は同年11月3日に「東亜新秩序」を声明、日満支経済ブロックの強化を推し進めていきました。

そんな中、黒沢商店は、国産タイプライターと国産「和文印刷電信機」の生産販売に、注力していました。タイプライターも「和文印刷電信機」も、輸入が全く途絶えてしまったので、黒沢商店が国内需要を、ある意味、一手に引き受ける形になってしまったのです。蒲田工場はフル稼働でした。そして、1940年5月1日、黒沢は「和文印刷電信機」国産化の貢献を認められ、大阪毎日新聞・東京日日新聞通信賞を受賞しました。これを機に、黒沢商店蒲田工場の技術力は、日本中に知られるところとなり、蒲田周辺には、多くの軍需工場が立ち並んでいくことになったのです。

黒沢の通信賞受賞を伝える記事(東京日日新聞、1940年5月1日)

黒沢の通信賞受賞を伝える記事(東京日日新聞、1940年5月1日)

黒沢貞次郎(13)に続く)

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

https://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

近代文明の進歩に大きな影響を与えた工業製品であるタイプライター。その改良の歴史をひもとく連載です。毎週木曜日の掲載です。