第3回で明治6年発行の第三単語図をご紹介しましたが、今回はこの国語掛図について深掘りしていきます。実はこの単語図、とても短命だったのです。
「国語」という教科名が正式に用いられるようになったのは、明治33年になってからのこと。学制期のこの時期、師範学校制定の下等小学教則では、第5回で紹介した『小学読本』などを学ぶ前段階として、単語図や連語図といった掛図を用いて、まず言葉の勉強をするように定めています。
明治6年発行された単語図は全部で8枚、西洋文明を積極的に摂取しようとする開明派の師範学校編集局が、ペスタロッチの教育思想を取り入れ、子どもが目で見て直観的に理解できるように絵図を中心にして作成しました。第一単語図と第二単語図は歴史的仮名遣いを教えるため、第三単語図から第八単語図までは子どもに身近な事物の性質や用途を問答形式で学ばせるために、漢字もしくはカタカナで表記しています。
ところが翌7年になると改正版が文部省から出版され、師範学校版はたった1年で廃版となってしまいました。具体的に改正部分を見てみると、全210の単語のうち、単語そのものの変更が4か所、表記の変更が29か所あります。第三単語図では表記変更は次の9か所です。
檎(明治6年版)→林檎(明治7年版)
柘榴→石榴
黄瓜→胡瓜
カボチャ→南瓜(注)
水瓜→西瓜
大根→蘿蔔
人参→胡蘿蔔
蕪菜→蕪
牛房→牛蒡
これを見ると、小学入門として入学したての子どもが学ぶにはより漢字が難しくなっているように思いませんか。特にカタカナで書かれた表記は、第三単語図のカボチャの他にも、コップ→鍾、マンテル→上着、シャップ→帽、ズボン→短胴服(チョッキのこと)と変更され、師範学校版が積極的に用いたカタカナ表記を文部省版は完全になくしてしまいました。
改正版がより難解になっているのは、連語図も同じです。学校では単語図の次に、単語を使って短句を並べた連語図を学びますが、師範学校版が口語体なのに対して、文部省版は文語体に変更されています。
「手習を致しましやう」が「手習すべし」と堅苦しい表現に変わり、これも子どもへの教え方としては時代に逆行しているようにみえます。
これらの改正の裏には、洋学派が占めていた師範学校に対する、国学派の圧力があったといわれています。当時の国学派の権力者黒川真頼(まより)が、口語体の言葉など自然に覚えるものであり、しかも「五年十年過ゆくとかかる文体は用ゐるべくもをもはれず」と断じ、将来役に立たない文体を教えることになると横やりを入れたのです。維新の大業に一翼を担った国学派の意見を、文部省が無視できなかったのでしょう。このため端緒では進歩的だった国語教育が古風に逆戻り、読本に口語体が用いられるようになるのは、文部省編纂『読書(よみかき)入門』『尋常小学読本』発行の明治20年ごろまで待たなければならなかったのです。
★おまけ
スイカを水瓜と書く人に夏目漱石がいます。
単語図で明治6年に水瓜と教えられたものが、7年には西瓜と変更されるわけですから、漱石はこの短命に終えた師範学校版を学んだ貴重な一人ではないかと、一人推察して楽しんでいます。他にキュウリを胡瓜と書かずに師範学校版と同じに黄瓜と書いています。慶応3年生まれの漱石は、明治7年12月に7歳で浅草の戸田学校に入学していますから、8月発行の文部省版でも不思議はないのですが、師範学校版びいきの私としては願いも込めて、漱石の作品の表記チェックをしているところです。(右写真は『漱石全集第一巻吾輩は猫である』漱石全集刊行会、昭和3年刊行 より。)
(注)写真の冊子では「南瓜子」となっていますが、実際の掛図では「南瓜」となっています。掛図を書き写した際の写し違いと思われます。
(出典)
師範学校版:『師範学校小学教授法全』田中義廉・諸葛信澄閲、明治6年、雄風舎蔵版。
文部省版:『師範学校改正小学教授方法』東生亀次郎、明治9年。