フランス語では、親しい人には tu(2人称単数)で話かけ、そうでない人には vous(2人称複数)を使います。この場合、tu は「親称」、vous は「敬称」と言います。でも、なんで複数にすると、丁寧になるのでしょうか? 今日はその不思議について、先生に聞いてみましょう!
学生:先生、質問があります。基本的なことなんですが、なんだかわからなくなって。
先生:なんだい?
学生:フランス語の tu と vous の使い分けのことなんですが。
先生:2人称単数の親称の tu「君、お前」と、敬称の vous「あなた」のことだね。
学生:初級フランス語の授業の最初の頃、「友だち、同級生や家族に対しては tu、そうではなくて、心理的に距離がある人には vous を使う」っておっしゃっていましたね。
先生:もしかして、実際にフランス人と話してみてどっちにしたらいいか困ったとか?
学生:いや、相手は同い年の留学生ですから、最初から tu で喋っています。それに、先生は、「どちらで呼ぶか困った時には、相手にあわせなさい。相手と相談して決めることもあります」ということでしたから、困ったらそうします。今、気になっているのは、使い分けじゃなくて、どうしてこんな複雑なシステムになったのか、ということです。先生は、「会話文の中に vous が出てくれば、①2人称敬称単数の『あなた』、②2人称親称複数の『君たち』、③2人称敬称複数の『あなたたち』の3通りにとれる」と説明していました。どうして、こんな複雑なことになっているのですか?
先生:どうしてこうなったのか、ということについて説明しようとすると、ラテン語に遡る必要がある。
学生:今回もラテン語ですか。
先生:うん。でも、そこまで遡れば、ヨーロッパの他の言語での敬称との関係も見えてくるよ。まず、前提とするべきは、現代フランス語の tu の語源である古典ラテン語の tu には単数の用法しかなかったし、同様に vous の語源である vos には複数の用法しかなかったということだ。
学生:つまり、「君」も「あなた」も tu、「君たち」も「あなたたち」も vos だったということですね。
先生:そう。本来2人称複数の vos が、後から、敬称として単数でも用いられるようになった、ということだ。
学生:それは、いつのことですか?
先生:ローマで専制君主政を確立したディオクレティアヌス帝(在位244-311年)の時代だという説がある。この皇帝は、演説や手紙で自分のことを、「私(ego)」の代わりに、「皇帝たる我ら(nos imperator)」と称するようになった[注1]。nos と imperator は同格だけど、imperator は単数形だよ。
学生:どうしてそんなことをしたのですか?
先生:この皇帝が、4皇帝での共同統治体制をしいて、それぞれの皇帝が他の3人も代表しているとしたことによる、というのだけれど、本当はそれよりも前から、散発的には例があるので[注2]、「私」と単数で言うよりも、広がりが出て、行いや存在に威厳が出るということだろうね。このような、1人称複数の代名詞の使い方は、後の皇帝に受け継がれて、「威厳の nos」(フランス語で、nous de majesté)と呼ばれるようになった。
学生:そういえば、西洋文学の授業で、先生が「強意複数」について説明していました。「水」をあらわす eau は物質名詞なので、単数でしか使えないはずだけど、詩では、les eaux と複数にして「大洋」となるとか。
先生:それは、水が集積して、広がってということを複数形で表しているということだね。フランス語や英語の詩に出てくる「強意複数」は、ラテン詩のレトリックに学んだ結果、それぞれの言語にもたらされたものだよ[注3]。「我ら」と言うと威厳があるように感じられるというのは、そういう感性によるものだろうね。これが、行政や教会の権力者に真似されて、西ローマ帝国崩壊の後も、使われ続けたというわけだ。さて、ここで質問だけど、自分のことを nos「我ら」と言う偉い人のことは、どう呼べばいいと思う?
学生:あ、わかりました! 自分のことを nos「我ら」と呼ぶ偉い人に対しては、vos「あなたがた」と呼ぶことになる、ということですね。
先生:その通り[注4]。この vos が、フランス語やその他の、ラテン語を起源とする言語(ロマンス諸語)に流れ込んだ。
学生:じゃ、フランス語では最初から vous に敬称としての用法があったのですね。
先生:うん、あった。あったのだけど、古フランス語では、現代フランス語とは違って、同じ人に tu で呼びかけたり、vos (vous の古フランス語における形)で呼びかけたりするということがあった。
学生:どういうことですか?
先生:現代のフランスでは、一般に、いったん相手を tu と呼ぶようになれば、ずっと変わらないで tu で呼び続けるというのが普通だけれど、古フランス語の文学作品を読んでいると、ある人物の同一の台詞の中で、同じ対話相手が tu で呼ばれたり、vos で呼ばれたりするということがあるんだよ。例えば、『ロランの歌』La Chanson de Roland で、瀕死の状態で横たわるオリヴィエにロランが呼び掛ける場面の台詞は次の通りだ。
« Deus ! dist li quens, or ne sai jo que face.
Sire cumpainz, mar fut vostre barnage !
Jamais n'iert hume ki tun cors cuntrevaillet[注5].伯〔=ロラン〕は言った。「神よ、私はどうしたらよいかわからない。
同志よ、あなたの勇敢さが仇になった。
君のような人は、二度と現れないだろう。
所有形容詞の votre と ton にあたる単語に下線をつけているけれど、両方ともオリヴィエのことを指している。わざと「あなた」と「君」で訳しているけれど、変な感じがするだろう?
学生:そうですね。現代フランス語を学んでいる目線から言えば、親称と敬称が混じるって、なんか気持ち悪いです。古フランス語では、どうしてこういうことが起こるんですか?
先生:これについては、詩なので ——『ロランの歌』は、1行10音節で書かれているよ —— 音節数を調整するためだとか、文学テクストの中だけのことで、実際の会話では使い分けがなされていただろうと言った研究者もいるのだけれど[注6]、あまりにも多くのテクストの会話の部分で、tu と vos の交代は普通に起こっている[注7]。少なくとも、当時のフランス語話者にとって、耳障りではなかったということだろうね。
学生:どうしてそういうことが起こったのですか?
先生:威厳の nos とか、それに対する敬称の vos が、もともとは、皇帝や高位聖職者といった社会の最上級の周辺に限られていたから、ということだろうね。庶民と権力者とで社会階層が分かれていた時代だから、庶民は、お互いに tu ばかりで話していたのだろうし、偉い人が来ても、その人を vos と呼ぶべきだという教育を受ける機会もなかっただろう[注8]。古フランス語が話されていた中世の言語体系においては、古典ラテン語の誰に対しても使うことができた tu がまだ生き残っているところに、上流階級で生まれた敬称の vos が組み込まれて、話者全体にこれは敬称であると認識されるようになっていたのだろう。その一方で、文化コードにおいては、この人は、tu と呼ぶ相手、この人は、vos と呼ぶ相手というような厳密なルールはなかった、ということだったのだろうね。
学生:そういえば、僕たち学生同士が話す日本語だと、同じ相手でも、親しく話す時は「お前」、あらたまって話す時は、「君」とか「あなた」と呼ぶというようなことがありますが、それと同じですか?
先生:日本語の場合、会話の途中で変わると、「改まったな、何か言い出すのだろうか」とは思うけれど、古フランス語の場合は、どうも、そういうことでもないらしい。『ロランの歌』をはじめとする古フランス語のテクストでは、家臣が王に話しかける時だって tu と vos が混じるし、神へのお祈りだって同様だ。vos は、いつも敬意を込めて使われたのに対して、tu は、誰に対しても使いえた。ただし、vos と対比されて、相手に対する優越感のニュアンスを含む場合もあった。だから、敬意を持って話す相手には、tu と vos が混じりえた、という程度の理解が妥当だろう。
学生:では、この人は tu で呼ぶ、この人は vous で呼ぶ、というような区別ができたのはいつですか?
先生:いつだと思う?
学生:絶対王制が成立して、身分社会における文化コードが確立したとされる17世紀でしょうか? ルイ14世に、下っ端の臣下が tu で呼び掛けたりしようものなら、即刻出入り禁止になりそうですよね。
先生:ははは。その通りで[注9]、この時代の貴族社会では、礼節を持って相手に話す際には、 vous と呼び掛けるのが標準的になった。王と臣下は、お互いを vous で呼びあうようになった。tu が使われるのは、心を許しあった友人同志とか、主人から召使いなど、自分よりも目下の者に対してということに限られるようになった。
学生:親称の tu が使われるのは、心を許しあった友人同士ですか。僕も、親友とは、「お前」と呼び合います。
先生:日本語との比較は慎重にしなくちゃいけないだろうけれど、親しい者にこそ特別に、という気持ちは共通しているんじゃないかな。また、この時代の宮廷では、男女間の礼儀作法(galanterie)では、男性は女性に対して vous で呼びかけるが、女性は男性に対して tu で呼びかけることになっていた。男性は、女性に対して召使いとして奉仕する、ということを形に表しているというわけだね。
学生:へーっ、なんだか複雑なことになっていますね。でも、古フランス語のように tu と vous が交代するということは無くなったんでしょう?
先生:頻繁には無くなったけれど、ラシーヌ Jean Racine (1639-1699) の古典劇を読むと、礼節を持って vous で呼びかけていた相手に対して、感情が高まった時に tu で呼びかけるという例がある[注10]。たとえば、この作家の『フェードル』Phèdre の第2幕5場には、テゼーの妻フェードルが、義理の息子であるイポリットに、許されない恋心を告白する場面がある。
HIPPOLYTE
Dieux ! qu'est-ce que j'entends ? Madame, oubliez-vous
Que Thésée est mon père, et qu'il est votre époux ?PHÈDRE
Et sur quoi jugez-vous que j'en perds la mémoire,
Prince ? Aurais-je perdu tout le soin de ma gloire ?HIPPOLYTE
Madame, pardonnez ; j'avoue, en rougissant,
Que j'accusais à tort un discours innocent.
Ma honte ne peut plus soutenir votre vue ;
Et je vais...PHÈDRE
Ah, cruel, tu m'as trop entendue !
Je t'en ai dit assez pour te tirer d'erreur.
Et bien ! connais donc Phèdre et toute sa fureur[注11] : [...]イポリット
神々よ! 私は何を耳にしているのか? 妃よ、お忘れか?
テゼーは私の父であり、あなたの夫であることを。フェードル
どうして、私がそのことを忘れてしまったとお思いか、
王子よ。私が、自分の名誉への配慮を失ってしまったとでも?イポリット
妃よ、お許し下さい。顔を赤めて認めます。
無実のお言葉を責めたのは過ちだったと。
恥ずかしくて、あなたの姿を見ていられません。
私は去ります。フェードル
ああ、残酷な方。聞きすぎるほどに聞いたというのに。
思い違いを正すために、十分に説明したではないか。
さあ、フェードルが何者か、その狂気の全貌を知るがよい。
赤字と下線で示しているように、フェードルがイポリットの非難をかわす台詞では、イポリットに対しては vous が使われているが、いよいよ愛を告白する際には、tu で呼びかけている。最終行の connais は、connaître の tu に対する命令法だよ。
学生:先ほどのお話では、宮廷では、女性は男性には tu で呼びかけるということでしたが、フェードルは、途中までは vous で話しているのですね。
先生:それは、男性が女性に対して奉仕を誓っているという関係でなりたつことで、そういう関係であるべきではない義理の母子の間では、礼節を保つために vous で呼び合っていたということだろう。それが突然 tu に切り替わることには、王妃としての立場や名誉心をかなぐり捨てたフェードルの狂気を読み取るべきだ。
学生:なるほど、この場合、vous から tu への切り替わりには、そういうことが表現されているのですね。17世紀の貴族社会は複雑です。では、庶民の社会ではどうだったのですか?
先生:貴族社会では、vous の呼びかけが標準的であったのに対して、庶民の社会では、tu で呼びかけるのが標準的だった。敬う必要のある親方や、教区の司祭に対してだけ vous で呼びかけるということになるね。
学生:知らない人にはどう話しかけたんでしょうか?
先生:tu が標準的ということだから、偉い人以外には、みんな tu で呼びかけるってことになる。
学生:となると、ある意味、古典ラテン語由来の、誰に対しても使える tu が生き残っているというか。
先生:いい指摘だね。もしかしたら、それは、現代も同じかもしれない。フランスの町を歩いていると、身なりのよくない若者から、tu で、「煙草くれよ」(T'as pas une clope ?)と声をかけられることがあるが、あれは、外国人だと思って馬鹿にしているんじゃなくて、知らない人には vous で呼びかける、というような言葉の使い方を知らない人なんだと思えば、「ないよ、ごめんね」で受け流せばいい、ということになるね。
学生:今の日本にもいますよね。「タメ口」しかきけない人って。
先生:それはそうだね。
学生:つまりは、17世紀の貴族社会におけるような tu と vous の使い分けが、その後庶民に伝わったということですね。
先生:いや、まだ考慮しなくてはいけないことがある。17世紀と現代の間には、大きなイベントがあったんじゃない?
学生:フランス革命ですか?
先生:その通り。フランス革命は身分制の廃止を目指したわけだけれど、さっき説明した貴族社会での、王と臣下とか、臣下と召使いといった相手との関係性によって tu と vous を使い分けるというのは、身分制そのものじゃないか。革命直後から、革命政府には、封建制における身分制の象徴である、敬称の vous を廃止しようという提案が起こり、革命暦2年霜月(1793年)には、公安委員会が、これを採択することになる。
学生:あ、急進的なジャコバン派ってやつですね。ロベスピエールに vous で呼びかけたら、ギロチンにかけられるとか。
先生:ははは。反動的なやつ、というレッテルを貼られて睨まれただろうね[注12]。
学生:行儀よく喋ろうとすると命懸けですね。
先生:まさに、その「行儀」が、反革命的だとみなされるんだよ。だけど、あまりにも急進的な革命政府は結局うまくいかなくて、テルミドール(熱月)9 日のクーデター(1794年)で瓦解する。vous は、フランス語に残ることになる[注13]。
学生:結局元に戻ったんですね。
先生:いや、元には戻らない。革命前の身分社会は、確実に破壊された。その後の変化を示唆する現象として、ニュロップ Kristoffer Nyrop(1858-1931)というデンマークの言語学者が、1920年代の状況をまとめて記述している中に、親子の間では、tu で呼ぶか vous で呼ぶかは、家族によって違うが、多くの場合は親も子も同じ呼び方をする、ただし、貴族に由来する家庭では、子供だけが vous と呼ぶ場合もあるということが書かれている[注14]。
学生:フランス語の授業では、家族の間では tu と習いますよね。
先生:20世紀初頭の上流階級の家庭では違ったんだ。今でも、vous で呼び合う家族がいるのを公園で見たことがあるけれど、ごく稀だね。17世紀の貴族社会の、vous を標準にするという礼節がまだ息づいている家庭もあるということだ。だけど、そういう家庭は、ごくごく少なくなって、一緒にいた友達のフランス人は、小声で「あれは、貴族の家庭」と言って笑っていたよ。現代では、家族の中では tu で呼び合う、というのが標準的になっている。
学生:フランスは、長い時間をかけて、民衆の国に変化したということですね。さっき、僕は、17世紀の貴族の話し方が庶民の話し方に影響したと考えていましたが、話は逆で、庶民の話し方が上流階級のフランス語に浸透したということなのでしょうか?
先生:その通り[注15]。ニュロップの記述は、その変化の過渡期の時代についての証言として読むことができる。ニュロップは、また別に興味深いことを書いているよ。当時のフランスでは、婚約者同士で vous で呼び合っていたとか、結婚すると、tu で呼ぶのが普通になるけれど、人がいる前では馴れ馴れしいから、vous に切り替えるとか[注16]。
学生:イチャイチャしているように見えるってことですかね? でも、フランス人って、恋人同士が人前で平気で抱き合ったり、キスしたりするっていうじゃないですか。
先生:そんな世の中に変わったのは、1968年の5月革命以降のことだよ。そこで、身分社会の上層の文化が、庶民の文化に主流を譲り渡した結果、愛しあう人たちは、人前でも平気で tu と呼び合うような世の中になったということだね。
学生:みんなが平等なら、tu が標準になって、知らないとか、身分じゃなくて立場が違うとかで、心理的な距離のある人には vous を使うということになりますね。
先生:その通り。ニュロップは、フランス語話者が、tu と呼ぶか vous と呼ぶかを決めたら変えないというようになったのは、20世紀になってからのことで、これは大きな変化だと書いている[注17]。
学生:その変化は、どうして起きたと思いますか?
先生:君が今いいことを言ったから付け足したんだよ。ニュロップが友達の手紙を引用しているんだけど、それを引こう。
「私は、年老いた私の乳母(今もここにいて、つい先ほどは、床を整えてくれました)、私の高校の時の同級生、私の妻、大学の同僚の何人かを tu で呼びます。〔中略〕そして、私は、他の人たちには、いっさい変わりなく、vous と呼びます。私の周りでは、〔tu と vous の〕揺らぎは観察できません」[注18]
これは、ニュロップの研究者仲間の大学の先生が書いた手紙らしいけれど、自分と相手の心理的な距離を問題にしているよね。身分制の社会でなくなった結果、人は、自分の私的な空間にいる大切な人や友だちのことを tu で呼び、同僚のように社会的なつながりの人たちについては、自分との距離や相手との社会的な関係から tu か vous かを選択し、そのような関係がない人については、vous で呼ぶようになった。君が今言った通りのことが書かれている。フランス革命の後、tu を標準とする庶民のフランス語が長い時間をかけて、乳母が家政婦をしているような環境で育った大学の先生の家庭でも使われるようになった。ただし、その間に浸透した学校教育を受けた「庶民」は、(身分の高い人ということではなくて)心理的距離のある人、知らない人には vous を使うべし、という礼節を身につけた話者になっていた。そういうことではないだろうか。
学生:さきほど、例にしていた、知らない人にも tu で煙草をねだる若者は、教育の問題というわけですね。
先生:そう、tu しか使わない話し方は、古代ローマ由来の「由緒ただしい」フランス語でもある、というわけだ。
ミニコラム 「その他の言語の2人称親称・敬称」
フランス語以外にも、2人称に親称と敬称がある言語があります。ラテン語から派生するロマンス語系のイタリア語とスペイン語、その影響を受けたゲルマン語の英語やドイツ語の場合、その由来は、本文に出てきた「威厳の nos」をはじめとするローマ皇帝の自称に遡ります。2人称単数に話を絞って、各国語の事情を記します。(2人称複数を持ち出すと、話が少し複雑になりますので)
1. イタリア語の場合
イタリア語でも後期ラテン語から「威厳の nos」に対する「敬称の vos」が入って、かつては、2人称複数と同形の Voi という敬称がありました。現在ではほとんど使われませんが、中部イタリア農村地帯や南部イタリアには残っているそうです[注19]。
現在残っているイタリア語の敬称は、3人称単数女性形の代名詞と同形の Lei ですが、これは、ローマの皇帝が、自称する際に nos 以外の呼称も使ったことに由来しています。「私たち」を表す所有形容詞 noster の後に、serenitas「晴天」、claritudo「名声」、mansuetudo「寛大」、excellentia「卓越」、aeternitas「永遠」という抽象名詞を従えた呼称を使ったのですが、これらはすべて女性名詞なので、noster は nostra という形になります[注20]。nos と自称する皇帝を vos と呼ぶようになったように、これらの称号に対しては、vostra 〜「閣下の〜」 という形での呼びかけが行われました。イタリアではこれに倣って、Vostra Signoria(signoria は、女性名詞で「統治」)、さらにはそれを省略して、Vossignoria という呼称が生まれました。Lei は、この呼称が代名詞で受けられたことに由来します[注21]。
2. スペイン語の場合
スペイン語においても、vos が敬称として使われましたが、イタリア語同様、今日ではほとんど使いません。今日敬称として使われている Usted ですが、これは、Vuestra Merced(あなたの慈悲)を省略したもので、イタリア語同様、ローマ皇帝の自称に由来します[注22]。
3. 英語
日本の中学校と高等学校で習う現代英語では、2人称の代名詞といえば、you しかありませんが、英語には、13世紀から17世紀まで、親称の2人称単数の thou が存在しました。敬称の ye (後の you)は、もともとは2人称複数です。これが2人称単数の敬称として用いられるようになったのは、フランス語からの影響によるものなので[注23]、やはり、ローマ皇帝が nos と自称したことに遡ります。
さらに、イタリア語とスペイン語の説明を読んで、イギリスで、今も女王陛下には、Your Majesty という敬称が使われていることを思い出した人もいるでしょう。これも、ローマ皇帝の「威厳の nos」に由来する、というわけです。
4. ドイツ語の場合
英語の thou は消失してしまいましたが、ドイツ語には、もともと2人称単数の du がずっと残っています。やはり、「威厳の nos」の影響を受けて、9世紀頃に、2人称複数の ihr が敬称として用いられるようになりました。フランス語と同様なのですが、ドイツの場合は、16世紀になると、敬称 Ihr は社会的に地位が高くない人にも用いられるようになったため、差異化を図るため、der Herr「ご主人様」、die Frau「奥様」、さらにはそれらを代名詞でうけて、3人称単数の Er(男性形) や Sie(女性系)も敬称として用いられるようになります。やがて、18世紀初めには、それらの敬称も価値を落として、英語の Your Majesty と同じ作りになっている Eure Majestät、あるいは、Eure Ehre(Ehre は「名誉」)、Eure Gnaden(Gnaden は、「恩寵」)という表現が使われ、それが代名詞 Sie で受けられるようになりました。ドイツ語の場合、「彼女」も「彼女たち」も sie ですが、やがて、敬称の Sie は複数とするのがふさわしいということになりました。本文で述べた「強意複数」と関わることと考えられます。こうして生まれたのが、現代ドイツ語に残る敬称の Sie だというわけです。さらに、18世紀後半では、それでも十分ではないということになって、Dieselben という、複合的な形の、最上級の敬称までもが生み出されました。この結果、この頃には、du < Ihr < Er < Sie < Dieselben という敬称の体系ができたのですが、複雑になりすぎたことと、フランス革命の影響をうけて身分制が崩壊していったことをうけて、du と Sie の対立に絞られるようになりました。使い分けは、人間関係が親密かどうかということによるもので、フランス語と同じになっています[注24]。
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