学生:先生、こんにちは。質問いいですか?
先生:夏休みに学校に来たの? フランス語の質問なら大歓迎だよ。
学生:ありがとうございます。今日はサークル活動のために来たら、先生が研究室にいらっしゃるようだったので。前期の授業で、フランス語の形容詞は名詞の後に置かれるのが一般的、って教えてくれましたね。そのことなんですけど。
先生:名詞の前後に置かれて名詞を修飾する付加形容詞のことだね。その通りだよ。
学生:でも、petit「小さい」と grand「大きい」とか、jeune「若い」と vieux「年をとった」とか、bon「良い」と mauvais「悪い」とか、beau「美しい」とか joli「きれいな」といった、短くてよく使われる形容詞は、名詞の前に置くという話でしたね。どうして、そういう例外が起こるんですか?
先生:ああ、そのことか。なかなか質問してくる学生はいないけれど、実に興味深く、また、複雑な話だよ。
学生:また、ラテン語に遡りますか?
先生:ラテン語というより、俗ラテン語かな。そして、ゲルマン語の影響もある。
学生:フランス語のもとになったのは、ローマ帝国による征服後、ガリアの地で民衆によって話されていた俗ラテン語だということは、授業でも時々話していますよね。
先生:いつもは、ラテン語でもそうだったという話をすることが多いけれど、今回は少し事情が違う。もともとローマ帝国で使われていた古典ラテン語では、付加形容詞を名詞の前に置くか後に置くかというルールはなかったんだ。これに対して、イタリア語やスペイン語など、フランス語と同様に俗ラテン語から発したロマンス語諸語における付加形容詞は、早い段階から名詞の後に置かれる傾向があったと言われている。ところが、フランス語はロマンス語系の言語であるのにもかかわらず、古フランス語の最初の段階(9世紀)において、支配者だったゲルマン民族のフランク族の影響が強い地域では、形容詞は名詞の前に置かれることの方が普通だったんだ[注1]。英語もドイツ語と同様にゲルマン語系の言語だけど、形容詞は名詞の前に置かれるよね[注2]。
学生:英語と同じ語順だったんですか!
先生:その証拠に、フランス語圏の地名にその痕跡があるよ。たとえば、スイスのフランス語圏であるスイスロマンド地方には、ヌーシャテル Neuchâtel という都市がある。
学生:時計で有名な町ですよね。
先生:よく知ってるね。Neuchâtel というのは、形容詞 neuf「新しい」と名詞 chastel「城」という2つの古フランス語が合わさってできている。フランス語圏の地名なのに、形容詞+名詞の語順になっているのがわかるね。
学生:「新しい城」ですか、英語で言うとニューカッスルですね。サッカーチームのニューカッスル・ユナイテッドのホームタウンです。
先生:君はヨーロッパの地理に関心があっていいね。ヌーシャテルという地名は、スイスロマンド地方だけでなく、フランスの北部、北東部、東部にもあるが、南部にはない。英語のニューカッスルにあたるフランス語の地名は、他にもシャトーヌフ Châteauneuf がある。こちらは、名詞+形容詞の語順になっている。この地名は、フランスのいま言った以外の地方全体に見られる[注3]。
学生:なるほど。同じ意味の地名が、今のドイツに近いところでは、Neuchâtel で、遠くなるほど Châteauneuf になるというわけですね。
先生:その通り。古フランス語の最初の段階(9世紀)に書かれたテクストで現在に伝えられているものは、たいへんに少ないのだけど、そこでは、付加形容詞は、100%名詞の前に置かれている。それが、その後の歴史の過程で、だんだんと名詞+形容詞の語順の文例が増えていって、17世紀頃に現代フランス語と同様に、形容詞は名詞の後ろに置かれるのが標準的になったんだ[注4]。
学生:では、フランス語に、名詞の前に置くことが標準とされる形容詞がある理由は、この言語が最初の段階でゲルマン語系の古フランク語の影響を受けたからだ、ということですね。でも、どうして「大きい」とか「小さい」という形容詞に、古フランク語の語順の影響が残ったんですか?
先生:1つには、「大きい/小さい」とか「良い/悪い」とか「美しい」というのは、人間がものや人の性質について語る際のもっとも基本的な語彙ということがあるね。繰り返し現れる表現は残りやすい。よく使われるものほど不規則というのは、語学の学習ではよくあることだ[注5]。もう1つには、これらの語が、話者の主観による判断を伝える形容詞だということがある。
学生:たしかに、「良い/悪い」とか「美しい」というのは、見る人によって変わって来るから主観的な判断によるものですね。でも、主観を表す形容詞であることがどうして、名詞の前に置かれることと関係があるんですか?
先生:古フランス語の最初の段階では、古フランク語の影響から、色や形を表す形容詞や、人同士、もの同士、あるいは人とものの関係を表す形容詞も、名詞の前に置かれたんだ。けれど、そういった客観的な性質を説明する形容詞は、古フランス語がもともと持っていたロマンス語の特徴により、名詞に後置されるようになってくる[注6]。その結果、名詞に主観的な性格付けを行う形容詞は名詞の前に、名詞に客観的な説明を行う形容詞は名詞の後に置くというシステムが17世紀に完成する。しかし、古フランス語の段階でも、形容詞を名詞の前に置くか後に置くかによって意味が変わることがあったと言われている。例えば、アーサー王を巡る散文作品の1つである『聖杯の探索』La Queste del saint Graal において、次のような文がある。
Ce est cil qui a esté hui fet chevalier novel, que mes sires Lancelot fist chevalier de sa main[注7].
「これが、ランスロ殿が自らの手で叙任式をすることで、今朝新たに騎士となった者だ」
「新たに騎士となった者」と訳した名詞+形容詞の語順の chevalier novel は、まさに叙任式を受けて騎士になったばかりの者を指している。この表現との対比で考えると、形容詞+名詞の語順の novel chevalier は「新米の騎士」という意味になる。その騎士をいつまで新米と見るかは、見ている人の主観によるところが大きいだろう。それに対して、叙任式を受けたばかりの騎士は、客観的に言っても「新しい騎士」と言えるよね。
学生:chevalier novel「新たに叙任された騎士」という言い回しができることで、もともとは、その意味も持っていたであろう novel chevalier が「新米の騎士」という新たなニュアンスを帯びた、ということですか。
先生:そういうこと。そのような例が他にも生じることによって、17世紀になると、名詞に主観的な性格付けを行う形容詞は名詞の前に、名詞に客観的な説明を行う形容詞は名詞の後に置くというシステムが確立したんだ。
学生:今の先生の説明を聞いて思い出したのですが、授業で先生は、un grand homme は「偉人」で、un homme grand は「背の大きい人」だと説明をしていましたね。grand「大きい」は名詞の前に置くのが普通、ということなら、「普通の言い方」の un grand homme の grand が「大きい」じゃなくて、「偉い」の意味になるのは変だと思っていたのですが、なるほど、そういうことですか。もともとは、un grand homme は「背の大きい人」という意味も持っていたのに、それを言うなら、un homme grand とするべきだ、ということになったんですね。そして、その結果、un grand homme は「偉人」という意味にシフトしたということですか。合点がいきました。
先生:名詞の前に置くと形容詞は主観的な意味になり、後ろに置くと客観的な意味になるというシステムがあることを人々が意識するようになって、初めて生じる現象だよね。システムが確立した17世紀以降の文法家が理論化することによって、他にもこういう表現が確立していった[注8]。
学生:他にはどういうのがありますか?
先生:フランス語の文法で、普通名詞に前置されると説明されるものの中では、un homme bon「善良な人」と un bonhomme「あいつ、やつ」があるね[注9]。
学生:名詞の後に置かれた bon が「善良な」という意味なのはわかりますが、「あいつ、やつ」って何ですか? それに、bon と homme の間にスペースがありませんね。
先生:親しい人や目下の人のことを第三者に話す時、「あの人、いい人なんだけどね……」と言って、以下略ってことない? それは、くだけた調子で言えば、「あいつ、いいやつなんだけどね……」ということだよね。bonhomme というフランス語は辞書では、「愛情・憐憫・軽蔑」を込めた表現と説明されているけれど、そういう主観的な感情をまじえて人のことを語る表現ということだよ。bon と homme の間にスペースがないことについては、「あいつ、やつ」という訳語にも現れているように、もはや「いい」「人」という2つの概念ではなくて、新しい1つの概念として意識されて、その概念を意味する1つの単語になっているということだ。
学生:へえ、そんなことがあるんですねえ。
先生:フランス語には、単語のグループがあった場合、後の単語にアクセントが置かれるという性質がある。bonhomme の場合、形容詞 bon がアクセントを失うことにより、「良い」という意味が弱まるのと同時に、名詞よりも前に置かれていることによって生じる「愛情・憐憫・軽蔑」といった主観的なニュアンスが、homme の意味まで変えてしまったということだ[注10]。
学生:なるほど。
先生:他に、名詞の前に置かれるのが標準ではないもので、初級のフランス語で出てくる表現としては、cher を使ったものがあるね。un repas cher は、「高い食事」だけれど、un cher ami は、「親しい友人」だ。
学生:「高い、貴重な」が主観的に捉えられて「友人」を修飾すると「親しい」になるのですね。
先生:こんなのもあるよ。「新しい」を意味する nouveau を名詞の後に置いた un vin nouveau は、「新たに販売されたワイン」という意味だけれど、du nouveau vin というように名詞の前に置くと、「新たに栓を抜いたワイン」ということになる。
学生:du nouveau vin というように、名詞の前に置くと、会話をしている人たちにとって「新しい」という意味になるわけですね。un vin nouveau は、さっきの『聖杯の探求』の「新たに叙任された騎士」と同じく、「新たに販売された」ということですか。あ、ボジョレー・ヌーヴォー Beaujolais nouveau というのが、まさにそうですね。父が毎年解禁の日に買ってきて、母と一緒に飲みます。去年は、「円安のせいで、高くなったなあ」と話していました。
先生:ははは。うちもそうだよ。解禁日は11月の第3木曜日と決まっているから、今年はまだ先のことだけどね。あと1つ、さきほどと同様に、homme を修飾する表現で言うと、brave という形容詞を使って、un homme brave と言うと、「勇敢な男」になるけど、これを homme の前に置いて un brave homme と言うと、「律儀な人、お人よし」になる。
学生:どういうことですか?
先生:アルベール・ドーザ Albert Dauzat という20世紀前半に活躍したフランスの言語学者は、un brave homme のことを「誠実さ、律儀さ、善良さなどの性質に恵まれている人。ただしそこから勇気だけを除いて」と説明している[注11]。
学生:もともとの意味の真ん中にある「勇敢さ」が除かれてしまうのですか? 言葉って不思議ですね。
先生:頭がこんがらがっちゃうかい?
学生:はい。でも、面白いです。今日もありがとうございました。
先生:これからサークルの続き? 暑いから水を心がけて飲むようにしてね。
[注]