前回は、どうやら「Ενκυκλιος παιδεια(エンキュクリオス・パイデイア)」が「童子を輪の中に入れて教育なす」という意味であるらしいことを確認しました。
しかし、そのような意味の言葉が、どうして最終的に「百學連環」と訳されることになるのか。このことはまだ謎のままです。今回は、この問題に迫ってみたいと思います。
このことを考えるうえで、とても参考になる書物があります。H.I.マルーの『アウグスティヌスと古代教養の終焉』(岩村清太郎訳、知泉書館、2008〔原書は1938年〕)です。ここでは、同書の説明をお借りしながら、「Εγκυκλιος παιδεια」(以下では、辞書の綴りで記しておきます)の意味を確認してみましょう。
まず確認したいのは、「Εγκυκλιος παιδεια」とは、古代ギリシアから中世ヨーロッパにかけて、現代とは異なる意味で使われていた言葉だということです。
現在、「Encyclopedia(エンサイクロペディア)」と言えば、ほとんど直ちに「百科事典」や「百科全書」と訳されます。現代の用法としては、それで問題はないのですが、その訳語をそのまま中世や古代に当てはめてしまうと問題が生じます。現代の「百科事典」という意味は、もっと現代に近い用法だからです。
マルーは、「Εγκυκλιος παιδεια」の「Εγκυκλιος」は、古代ギリシアにおいては「円環を成す」というよりは、「普通の」「日常の」という意味を担っていたと指摘しています。つまり、「Εγκυκλιος παιδεια」とは、「基本的な教育課程」を意味していたというわけです。当世風に言えば「一般教養」でしょうか。
詳細は省きますが、これがローマの教育に入り、中世を通じて「自由学芸(artes liberales)」と呼ばれるようになります。英語で言うLiberal artsですね。自由学芸とは、哲学などのいっそう高度な学へ進むための基礎を築くものでした。
自由学芸の内訳は、論者によってさまざまです。典型的には「文法」「修辞学」「弁証論」「算術」「幾何学」「天文学」「音楽」といった七つ前後の分野から成っているようです。そのことを受けて「自由七科」と呼ばれることもあります。面白いことに、ここにはいまで言う文系の学術と理系の学術が揃っていますね。ひょっとしたら「音楽」だけ別ものに見えるかもしれませんが、ここで言われている「音楽」は、数学の一種と捉えられています。
学術をどう分類するかということのうちには、時代や文化の世界観や学術観が映り込むものです。自由学芸では、およそ半分が言葉を知り、言葉をよりよく使うための学術に割り当てられており、その比重の大きさが目を惹きます。
さて、「基本的な教育課程」を意味する「Εγκυκλιος παιδεια」の理念が、「自由学芸(artes liberales)」に受け継がれ、それはやがて現代の大学における「一般教養」にまでつながります。ただ、昨今では「一般教養」の本来の意味や意義が見失われて、なんの役に立つか分からないものという勘違いが横行しているのは、本末転倒の極みと言うべきものでしょう。歴史と経緯を忘れてしまうと、そういうバカげたことになります。そのことについては、いずれお話しするとして、以上のことを踏まえて、冒頭の謎に答えを出しておきましょう。なぜ「Εγκυκλιος παιδεια」が「百學連環」と訳されなければならなかったのか。
本来、ここに述べてきたような意味を担っていた「Εγκυκλιος παιδεια」は、ローマ時代にクインティリアヌスやウィトルウィウスといった人びとによって、読み替えられてゆきます。つまり、前回辞書で調べてみたように「Εγκυκλιος(エンキュクリオス)」とは、「円環(κυκλος)」のことであり、「Εγκυκλιος παιδεια」とは、あれこれの学術が「円環をなした教養」のことだ、というわけです。
つまり、これを訳せば「百學連環」となる次第。ここで「百」とは、100という数字そのもののことというよりは、「数多の」というくらいの意味です。「諸子百家」という場合の用法ですね。要するに、「百學連環」とは、数多の学術が連環をなしていること。見事な訳と言うほかはありません。では、この言葉は、「Εγκυκλιος παιδεια」の原義である「基本的な教養課程」とは、どう関係するのか、しないのか。新たな疑問が浮かんできますが、これはまた先で考えることにしましょう。
というわけで、いったん言葉の連環をめぐる旅を終えて、ようやく再び本文に戻ることができます。