以上で第一段落を読み終わりましたので、第二段落に入ります。
凡そ學問には學域と云ふありて、地理學は地理學の學域あり、政事〔學〕は政事〔學〕の學域あり、敢て其域を越えて種々混雜することなし。地理學は地理學の域、政事學は政事學の域、何れよりして何れ迄其學の域たることを分明識察して、其の境界を正しく區別するを要すへし。
(「百學連環」第1段落第10~11文)
現代語訳は次の通り。
一般に学問には学域がある。例えば、地理学には地理学の学域が、政治学には政治学の学域があって、そうした領域を越えてあれこれが混雑することはない。地理学には地理学の領域が、政治学には政治学の領域があり、どこからどこまでがその学の領域であるかをはっきり見て取り、その境界がどこにあるかを正しく区別しなければならない。
ここで言われていることは、むしろ現代の私たちにとって分かりやすいことかもしれません。学術は時代を下るにつれて、その領域をますます細分化し、相互に区別しあってきているからです。ただし、それではそれぞれの学の境界線がどこにあるかをちゃんと知っているかと問われると、少々心許なくもあります。
加えて昨今では、「環境情報」や「神経美学」といった、組み合わせによる学問領域がたくさんつくられるようになっています。例えば、西先生が挙げている「地理学」と「政事〔政治〕学」は、たしかに別の領域ですが、他方では「地政学(geopolitics, Geopolitik)」という学問領域もあります。これはまさに「地理学(geology)」と「政治学(politics)」を融合させたものです。言われてみれば当然のことながら、政治とはどのような地域、風土かということと抜きがたく関係しています。地理を捨象して慮外に置いても問題のない政治学もあれば、地理的条件を考えずには成り立たない政治学もあるはずです。ちなみに、「百學連環」には「地理学」の下位に「政学上地理学 Political Geography」という学域が区別されています(83ページ)。
いずれにしても、学域とは、ある歴史的な経緯のなかで生じてきた人為的な境界線です。ですから、学域について考える際は、西先生が言うように、ある学問の境界がどこからどこまでなのかを認識することが大切です。西欧の文物をどんどん移入吸収しようとしていた明治期には、そうした諸学術にほとんど初めて接する状態だったと言ってよいと思います(それ以前にも切支丹経由の移入はあったにせよ)。それだけに、いろいろある学術相互の違いをはっきり認識すべしという西先生の注意は、大きな意味を持っていたと推察されます。
ただ、それは100年以上を閲した現在、再び人ごとではなくなっているとも思います。今度は、学域というものが、所与のもの、なにか当たり前のものとして受けとられるようになっているからです。例えば、文学と物理学は別の学術であることを疑う人はあまりいないでしょう。しかし、なぜ両者が別の学術として発展しなければならなかったかと問われたらどうでしょう。どうかすると、「だって学校で最初から別々に分かれてたんだもの」という話になってしまうかもしれません。それでは学域がはっきりしているとは言えないわけです。
既に引かれていた境界線を当然視せず、その来歴や現状を確認してみること。さらに言えば、そうした境界線はなおも妥当なものなのかどうかを検討してみること。「百學連環」をいま読むことにはいろいろな意味があると思いますが、百学を並べて、学域相互の違い、現在と過去の違いを総覧してみることは、その一つです。さらに言うなら、西先生の顰みにならって、「百學連環」の現代版をこしらえてみる必要もあるのではないかと思います。