「書体」が生まれる―ベントンがひらいた文字デザイン

第13回 寅雄、欧米視察に行く

筆者:
2019年1月23日

アメリカの活字鋳造会社ATFのベントン彫刻機を、なんとかして手に入れたいと思っていた亀井寅雄に、チャンスがおとずれた。大正10年(1921)10月、政友会の領袖[注1] であり、原敬内閣の法制局長官でもあった横田千之助がワシントン軍縮会議に参列することになり、それに随行して欧米諸国の視察をおこなうことになったのだ。

 

寅雄の入社後、三省堂の業績は急速に回復し、彼が一時留守にしても心配のない状況にまでなっていたことと、以前から横田と外遊の約束をかわしていたということから実現した欧米視察だった。

 

目的は、欧米をまわり、印刷や出版界の状況を視察すること。しかし寅雄の「いちばんの目的」は、ATFに行き、なんとかしてベントン彫刻機を手に入れることだった。

 

一行は10月15日に船に乗って東京を出発し、11月2日にワシントンに到着した。ところが、到着直後の11月4日、原敬首相が凶漢に刺殺される事件が起こり、横田は急遽、日本に帰らなければならなくなった。欧米の印刷・出版界の事情視察が目的だった寅雄は、ここで横田ら一行と別れ、単身、ニューヨークに向かった。

 

実は東京を発つ前、凸版印刷の支配人・三輪竹次郎がひとりの男を紹介してくれていた。男の名は今井直一(いまい・なおいち。1896-1963)。日本写真界の先駆者・小川一真の弟子で写真屋をいとなむ父をもち、大正8年(1919)、東京美術学校製版科(のちの東京高等工芸学校)を卒業後、同10年2月から農商務省の海外実業練習生として渡米。ニューヨークの印刷所で、写真製版やグラビアの勉強をしていた。「農商務省の海外実業練習生」とは、〈種々の分野に将来有望と認められた優秀なる青年を海外に送り、勉学させて、わが国の産業にプラスさせる―という奨学機関〉であり、印刷界では市岡岱と今井直一のただ2人だけがその特典を得られたという。[注2]

今井直一(1896-1963)『三省堂の百年』(三省堂、1982)より

今井直一(1896-1963)
『三省堂の百年』(三省堂、1982)より

三輪とは、彼がニューヨークを訪れた際、同じ印刷関係の仲間としていっしょに遊んだり散歩したりした仲だった。寅雄が欧米視察に行く送別会の席上で、三輪に「アメリカの印刷・出版界を視察するにあたり、印刷にくわしい日本人の案内者がほしい」と相談したところ、推薦されたのが今井だったのである。[注3]

 

寅雄はまずニューヨークで今井に会うと、滞在中の案内役や調査手伝いをしてほしいと頼んだ。2週間ほどアメリカに滞在したあと、一度ヨーロッパに行き、しばらくしてまたアメリカに戻って1カ月ほど過ごした。[注4] 今井はその前後を通じて、数十カ所の出版社や印刷会社、印刷機械製造会社を案内したり、出版社の組織を調べて報告するなど、寅雄の手伝いをした。

 

もちろん、これらの視察でも寅雄の得るところはおおきかった。

しかしなんといっても、欧米視察のいちばんの目的は「ベントン彫刻機の入手」である。

 

寅雄はいよいよニュージャージーのATFをたずね、リン・ボイド・ベントンに面会して、ベントン彫刻機を買い入れたいことを伝えた。

リン・ボイド・ベントン(1844-1932)橘弘一郎「活字と共に三十五年――今井直一氏に聞く」『印刷界』40号(日本印刷新聞社、1957)より

リン・ボイド・ベントン(1844-1932)
橘弘一郎「活字と共に三十五年――今井直一氏に聞く」『印刷界』40号(日本印刷新聞社、1957)より

ベントンは渋った。

第一の理由は、ベントン彫刻機はATFが自社内で母型を彫刻するために使っている機械であって、一般に販売しているものではなかったこと。だから門外不出だったのだ。「日本人はすぐにまねをして、同じような機械をつくって商売をするからだめだ」と言ったという。[注5]

 

もうひとつの理由は、せっかく機械を買って行っても、使いこなせないのではないかと思われたこと。日本ではすでに明治45年(1912)、印刷局がベントン彫刻機を輸入している。さらにもう1台、東京築地活版印刷所でも所有している。[注6] ところが印刷局ではあまり使っておらず、東京築地活版製造所では仮名と数字だけを彫刻している状態で、いまだ本格稼働にいたっていない。[注2] せっかくの機械が、それでは意味がない。

 

寅雄の反論は熱かった。

「日本の活字事情は特殊なのだ。欧米ではわずかアルファベット26文字の優秀な母型をつくればこと足りるが、日本ではすくなくとも数千字の母型を製造しなくては、うつくしい文字印刷を実現することができない。しかも、わが社は出版社であって、活字販売会社ではない。あくまでも、ベントン彫刻機をもちいて自社出版物のための優秀な母型、ひいては活字をつくり、よりよい書物を出版したいだけなのだ。なんとかベントン彫刻機をゆずってはもらえないだろうか」

 

かくして寅雄の情熱のまえに、リン・ボイド・ベントンは折れた。

「ただし、せっかく買っていっても、先に所有している両社のようでは意味がない。この彫刻機を使うことはなかなか困難だ。それをこちらで勉強して、もし正確な操作ができるようになったら、きみの会社のために機械を製作し、売ってもいいだろう」[注7]

 

寅雄は、三井物産を通じてベントン彫刻機を買い入れる交渉をすすめ、ついにATFと契約をむすんだ。その段になってから、今井を呼んだ。[注3]

 

ベントン彫刻機の操作を習得し、その知識と技術を日本に持ち帰る技師には、この男こそふさわしい。寅雄はそう考えていたのである。

[注]

  1. 政友会(正式名称は立憲政友会)は、明治後期から昭和前期にかけての代表的な政党。領袖は、ある集団の長となる人物のこと。
  2. 橘弘一郎「活字と共に三十五年――今井直一氏に聞く」『印刷界』40号(日本印刷新聞社、1957)
  3. 「辞典と組んで30年 今井直一氏の業績」『印刷雑誌』(印刷雑誌社、1957年3月号)
  4. ヨーロッパ滞在中、寅雄が案内役を頼んだのは、文部省在外研究員として英独に留学していた伊東亮次(印刷工学者。のちの東京高等工芸学校、千葉大工学部印刷科教授)
  5. 細谷敏治(1914-2016)の遺したノート「焼結法によるパンチ母型」(2008年ごろ執筆)より。細谷は、東京高等工芸学校印刷工芸科を卒業後、昭和12年(1937)、技師として三省堂に入社、母型研究に力を注いだ。
  6. 東京築地活版製造所がベントンを入手した年代については諸説あるようだ。印刷局と同じく明治45年(1912)とする説もあれば、三省堂と同じ大正12年(1923)とする説もある。しかし、いくつかの今井直一のインタビュー記事を見ると、すくなくとも三省堂より先に入手しており、今井はその使用状況などを聞いていたように思える。ちなみにここの記述は、橘弘一郎「活字と共に三十五年――今井直一氏に聞く」『印刷界』40号(日本印刷新聞社、1957)より
  7. 細谷敏治ノート「焼結法によるパンチ母型」(2008年ごろ執筆)には、「売買にすると日本人はすぐに模造機をつくって商売にするから」という理由で、売買ではなく譲渡というかたちをとったと、今井直一から直接仄聞したという記述がある。しかし他のほとんどの記事では「買い入れ」「売る」といった表現がもちいられている。

[参考文献]

  • 『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955)から、
    亀井寅雄「三省堂の印刷工場」
    今井直一「我が社の活字」
  • 『亀井寅雄追憶記』(故亀井寅雄追憶記編纂準備会、1956)
  • 亀井寅雄 述/藤原楚水 筆録『三省堂を語る』(三省堂、1979)
  • 『三省堂の百年』(三省堂、1982)
  • 橘弘一郎「活字と共に三十五年――今井直一氏に聞く」『印刷界』40号(日本印刷新聞社、1957)
  • 「辞典と組んで30年 今井直一氏の業績」『印刷雑誌』(印刷雑誌社、1957年3月号)

筆者プロフィール

雪 朱里 ( ゆき・あかり)

ライター、編集者。

1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

編集部から

ときは大正、関東大震災の混乱のさなか、三省堂はベントン母型彫刻機をやっと入手した。この機械は、当時、国立印刷局と築地活版、そして三省堂と日本に3台しかなかった。
その後、昭和初期には漢字の彫刻に着手。「辞典用の活字とは、国語の基本」という教育のもと、「見た目にも麗しく、安定感があり、読みやすい書体」の開発が進んだ。
……ここまでは三省堂の社史を読めばわかること。しかし、それはどんな時代であったか。そこにどんな人と人とのかかわり、会社と会社との関係があったか。その後の「文字」「印刷」「出版」にどのような影響があったか。
文字・印刷などのフィールドで活躍する雪朱里さんが、当時の資料を読み解き、関係者への取材を重ねて見えてきたことを書きつづります。
水曜日(当面は隔週で)の掲載を予定しております。