「書体」が生まれる―ベントンがひらいた文字デザイン

第43回 ベントン彫刻母型への批判

筆者:
2020年3月18日

昭和6年(1931)、三省堂はベントン彫刻機をもちいた明朝体漢字の母型彫刻に着手した。しかし明朝体漢字の彫刻はとても困難で、軌道にのるまでに時間がかかった。三省堂の今井直一は、困難の理由として3つ挙げたが(本連載「第42回 かな、そして明朝漢字の彫刻へ」 参照)、とりわけ①ハネクチの先端が細く鋭くあらわせない、②機械的になるので筆勢がなくなり、文字が死んでしまうということについて、きびしい批判がよせられた。

 

①については前回ふれたので、今回は②「機械的」「筆勢がない」「文字が死んでいる」という批判について見ていきたい。これらの批判が起きたのは、電胎母型と彫刻母型(ベントン彫刻機による母型)の文字のつくられかたのちがいが理由だった。

 

ベントン彫刻機では、定規とカラス口をもちい、紙に拡大して書いたものを原字として、そこからパターン(ベントン彫刻機の型)を製作し、母型を彫刻する。一方、電胎母型には原字はない。母型のおおもととなるのは種字で、種字彫刻師が思い思いの文字を直接手で、原寸大で彫りあげる、フリーハンドにちかい文字なのだ。だから、ハネ先やハライに勢いと鋭さが生まれる。電胎母型の文字を見慣れていた当時の人たちの目には、彫刻母型の文字は「機械的」「文字が死んでいる」とうつったのかもしれない。

 

昭和28~29年(1953~1954)ごろの原字制作の様子。
 

昭和28~29年(1953~1954)ごろの原字制作の様子。実際の作業ではなく、カタログ掲載用に撮影された写真だが、三角定規や筆をもちいて原字制作をしていた様子がうかがえる。写っているのは、のちに三省堂に入社する杉本幸治

『三省堂ぶっくれっと』No.103(三省堂、1993)[注1]

 

今井もずいぶん悩み、〈製図に際して線に抑揚をもたせ、形によって補うことを考えた〉[注2]りもしたが、ある時点で〈はたして活版の文字に筆勢がどれほど有用なものであろうか〉[注3]と思いいたった。

 

しかし何といっても文字は読みやすいことが第一でなければならない。たとえ一字一字をとってみて、それに欠点があろうとも、続けて読んでみて読みよければ差支えはないのであるから、機械的であることについて苦慮するよりは、揃った、よみよい、美しい文字を作るよう努めることに決心した。

今井直一「我が社の活字」(三省堂、1955/執筆は1950)[注4]

 

「機械の中から宝探しをする」ように、ベントン彫刻機の性能をさぐり、みきわめ、自社ならではの工夫もくわえて、三省堂はその活用法を確立していった。日本語書体において漢字は当時〈少くとも六千、普通には八千字位はなくてはならない〉[注5]ものだったが、試行錯誤しながら彫刻を進めるなか、「漢字すべてを彫刻していては、一種類の母型を完成するだけで3年あまりかかってしまう」ことに気がついた。金属活字では、各書体1種類ずつ母型があればよいのではない。書体ごとに母型が必要なのはもちろんのこと、活字の大きさごとにも母型が必要なのだ。[注6]すべてをこなそうと考えれば、膨大な数の母型をあらたに彫刻する必要がある。それでは何年かかるかわからないということで、使用頻度の高い漢字から「三省堂常用三千字」をさだめ、まずはこれを彫刻することにした。[注7]最初に彫刻した明朝漢字の母型は何ポイントだったのかはわからないが、ひらがなとカタカナは8ポイントと9ポイントから彫りはじめていること、今井によれば〈三省堂の文字は九ポイントを標準にしてデザインしたもの〉であることから、9ポイントあたりから開始したのかもしれない。[注8]

 

外字は出現率がきわめて低いので、従来使っていた電胎母型をそのまま使い続けることにして、かわりにゴシック体や欧文のベントン母型を並行して彫刻した。

 

 以来終戦(筆者注:1945年)に至るまで十四年間(筆者注:昭和6~20年)に約三八,五〇〇個の彫刻母型を完成した。一日平均九個仕上げた計算になるが、その間彫刻用ツールの磨損のため休止したことなどもあり、また、一番手数のかかる明朝漢字が、全体の五六パーセントを占めていることをみても、相当の成績をおさめたものといえる。

今井直一「我が社の活字」(三省堂、1955/執筆は1950)[注9]

 

ところでベントン彫刻機導入後の「原字デザイン」についてだが、種字彫刻時代は職人がじかに活字材に種字を手彫りしていたわけで、紙に拡大原字を「デザインする」という方法は、ベントン彫刻機になって初めておこなわれたものとかんがえられる。経験者がいなかったことから、どうやら最初はゼロから原字を書くというわけではなく、電胎母型から鋳造した金属活字の文字(印刷したもの)をベースにしたようだ。のちに三省堂に入社した書体設計士の杉本幸治[注10]は、〈当時三省堂にいた先輩たちが悪戦苦闘して「文字をデザインした」というと格好はいいんですが、活字の清刷りを拡大して、それを修整しながらセクション・ペーパーに書いていったわけです〉[注11]と語っている。

(つづく)

 

[注]

  1. 金田理恵「三省堂の文字を作る――杉本幸治氏インタビュー」『三省堂ぶっくれっと』No.103(三省堂、1993)P.27
  2. 今井直一「我が社の活字」『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955/執筆は1950)P.27
  3. 今井直一「文字の印刷」『印刷界』1952年9月号(日本印刷新聞社)P.28
  4. 今井直一「我が社の活字」『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955/執筆は1950)P.27
  5. 今井直一「我が社の活字」『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955/執筆は1950)P.29
  6. 母型は鋳造する活字の大きさごとに製作する必要があったが、パターンは別。ベントン彫刻機では、彫刻時に縮小率を変えることができたので、同じパターンから何種類ものポイントの母型を彫ることができた。ただ、本来は活字の大きさによってあるていど原字デザインを変える必要があるため(小さい文字ではフトコロを大きくしないと文字がつぶれ、見出しなどの大きい文字ではフトコロを小さめにしないとデザイン的に締まって見えないなどの理由から)、何種類かのパターンを用意して使い分けるということもおこなわれていた。毎日新聞社でベントン彫刻機のパターン用の原字制作にたずさわっていた小塚昌彦は、著書『ぼくのつくった書体の話』(グラフィック社、2013、P.42)で〈彫刻時に倍率を設定できるので、本文用、見出し用、大見出し用の三種類(筆者注:のパターン)を用意すれば大丈夫でした〉と述べている。毎日新聞社におけるベントン母型彫刻機用の文字パターンのサイズは、本文用が2インチ、見出し用が3.3インチ、大見出し用が4インチだった。しかし、三省堂ではすくなくとも昭和25年(1950)当時、パターンを数種類製作するところまでは手がまわらず、1種類のパターンで大きい文字から小さな文字まで彫刻していた(今井直一「我が社の活字」P.34)
  7. ちなみに、最初に彫刻した明朝漢字が何ポイントのものだったのか、今井直一「我が社の活字」(三省堂、1955/執筆は1950)には具体的な記述がないのだが、母型彫刻と並行してすすめていたとかんがえられる「明朝漢字 3000字」のパターン製作は、昭和6年(1931)2月18日から昭和10年(1935)7月20日にかけて、約4年半の年月をかけておこなわれた。(今井直一「我が社の活字」三省堂、1955/執筆は1950 P.31)
  8. 今井直一「我が社の活字」『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955/執筆は1950)P.34
  9. 今井直一「我が社の活字」『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955/執筆は1950)P.29
  10. 杉本幸治(すぎもと・こうじ/1927-2011)書体設計士。1927年、東京生まれ。東京府立工芸学校(現・東京都立工芸高等学校)印刷科卒。1946年、三省堂に入社。活版印刷周辺の仕事を経験したのち、今井直一のもと、書体設計に従事。またその間、晃文堂(のちのリョービイマジクス。同社のフォント事業は2011年、モリサワに譲渡)の明朝体、ゴシック体の開発を援助。1975年に三省堂を退社、1977年フリーランスとなり、タイポデザインアーツを主宰。「本明朝」制作、「本明朝ファミリー」の開発と監修にたずさわった。
  11. 朗文堂/組版工学研究会 編集・制作『杉本幸治 本明朝を語る』(リョービイマジクス発行、2008)P.10
    「セクション・ペーパー」とは、方眼紙のこと。

[参考文献]

  • 今井直一「我が社の活字」『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955/執筆は1950)
  • 『三省堂ぶっくれっと』No.103(三省堂、1993)
  • 朗文堂/組版工学研究会 編集・制作『杉本幸治 本明朝を語る』(リョービイマジクス、2008)
  • 『三省堂の百年』(三省堂、1982)
  • 小塚昌彦『ぼくのつくった書体の話――活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(グラフィック社、2013)

筆者プロフィール

雪 朱里 ( ゆき・あかり)

ライター、編集者。

1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『印刷・紙づくりを支えてきた 34人の名工の肖像』『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

編集部から

ときは大正、関東大震災の混乱のさなか、三省堂はベントン母型彫刻機をやっと入手した。この機械は、当時、国立印刷局と築地活版、そして三省堂と日本で3社しかもっていなかった。
その後、昭和初期には漢字の彫刻に着手。「辞典用の活字とは、国語の基本」という教育のもと、「見た目にも麗しく、安定感があり、読みやすい書体」の開発が進んだ。
……ここまでは三省堂の社史を読めばわかること。しかし、それはどんな時代であったか。そこにどんな人と人とのかかわり、会社と会社との関係があったか。その後の「文字」「印刷」「出版」にどのような影響があったか。
文字・印刷などのフィールドで活躍する雪朱里さんが、当時の資料を読み解き、関係者への取材を重ねて見えてきたことを書きつづります。
水曜日(当面は隔週で)の掲載を予定しております。