これまでの3回(第15回・第16回・第17回)は、『東京人』や『大阪人』といった、共同体(東京弁社会・大阪弁社会)に由来するキャラクタを取り上げた。
そこで述べたのは、共同体由来のキャラクタは、共同体の外からでないと見えないということである。たとえば『東京人』キャラは東京弁社会の内部では「ふつう」であって見えない。スマート、あるいはキザっぽいといった『東京人』キャラは、その共同体から一歩出て初めて見えてくる。
だが、「内ではふつう。外から見える」という性質は、共同体由来のキャラクタに特有というわけではない。この連載の開始当初の話を振り返ってみよう。
人間は社会的な動物であり、日々、群れの中で生きている。群れの中でどうやって生きているかというと、お互いを評価し合って生きている。「あの人は『坊ちゃん』」「あの人は『いい人』」など、好き勝手に他者を評価するだけでなく、他者が自分に下した評価に舞い上がったり落ち込んだり、一喜一憂して生きている。
そして、このような多くの私たちにとって最大の関心事といっても過言ではない「人物評」は、意図とはなじまないのであった(第2回・第3回)。たとえば「あの人は『坊ちゃん』だ」と言う時の『坊ちゃん』とは、「ふつう」に振る舞っているのに、はたから見れば坊ちゃんだという人のことである。同様に『いい人』とは、「ふつう」に振る舞っているその振る舞いが、他人から見ていい人のことである。本人はあくまで「ふつう」であって、「『坊ちゃん』だと思わせよう」「『いい人』と思われよう」といった意図はない。いや、あってもいいが、外から見えてはならない。
谷崎潤一郎『細雪』(中巻)に、意図の露見ゆえに報われない男が出てくるということは第3回で述べた。奥畑という大家の坊ちゃんが幸子に「不愉快」と切り捨てられるのは、彼が『坊ちゃん』キャラを醸し出そうと「意図的に」ゆっくりしゃべるからである。
『細雪』にはもう一人、意図露出のかどで低評価に甘んじなければならない男が出てくる。洪水見舞いのため、取る物も取りあえず大阪から芦屋へ苦労して一番に駆けつけ、幸子に挨拶し、さらに幸子の娘の無事な姿に涙声で「まあ、娘(とう)ちゃん、よろしゅうございましたなあ」と涙声で話しかけるという庄吉の行為は、『いい人』の振る舞い以外の何物でもないが、幸子の目には「平素から口数の多い、表情たっぷりな物云いをする男」が「わざと鼻を詰まらせたような作り声を出して云った」と映る。娘さんの無事に安堵したからといって声の調子をあからさまにコントロールして涙声にすると、こんな目に遭ってしまうのである。
「話し手は声の調子をコントロールして、自分のきもちを相手に伝える」という、いかにももっともらしい考えは、実は十全なものでは決してない。私たちが日々繰り広げるコミュニケーションや、そこで交わされることばを観察する際に、話し手が意図的に切り替え使いこなす「スタイル」とは別に、意図となじまない「キャラクタ」という考え方が必要というのは、まさにこのことである。そして、以上で取り上げた『坊ちゃん』『いい人』は、共同体ではなく個人に由来するキャラクタである。
このように、「内ではふつう。つまり伝達意図なし。外からそう見えるだけ」という性質は、共同体由来のキャラクタだけでなく、個人由来のキャラクタにも当てはまる。「内」が個人心内か共同体内部かという違いはあるが、両者は根本的に異なるものではない。