「キャラクタ」という考えを受け入れなければ説明できないと思える事例は、ごく最近の動画や文字資料にも豊富に見つかる。前回はその一例として「嵐」の櫻井翔氏の発言や、浅井尚子氏の『お魚菜時季』を示したわけだが、そういうものは、おじさん、この連載ではあんまり取り上げないの。
いやいや。そういうのが嫌いってわけじゃないよ。「嵐」なんか、ファンクラブに入ってるぐらいだもん。うん、ウソだけど。でも『お魚菜時季』なんか、連載68が欠番だとか、浅井水産はあのビルの1階だとか、好きでよく知ってるもん。これはホント。(マニアかな。。。)
じゃあ、なんで最近のものを取り上げないのかっていうと、そういうのをいっぱい出したら、誤解されて、「現代若者論」ってやつに絡め取られちゃうから。「なるほど。櫻井という若者のように、いまどきの連中は「自分」というものがしっかりできていないということですな」「いまの若者は、浅田という人のようにことばが乱れて、「自分」らしい一貫した文章が書けなくなっているわけね」みたいに。いくら「違います。これは最近の若者にかぎった話じゃないんです。私たちは昔からこうだったんです」って言っても、きいてくれないの。おじさん、知ってるもん。
かといって、こういう例も、おじさんはあんまり取り上げたくないの。
また、さもあるまじき老いたる人、男などの、わざとつくろひひなびたるはにくし。
おなじことなれどもきき耳ことなるもの。法師の言葉。をとこのことば。女の詞。下衆の詞には、かならず文字あまりたり。
[清少納言『枕草子』池田亀鑑校訂, 岩波文庫]
「そう年寄りでもない人や男なんかが、わざと田舎くさく取り繕っているのは気にくわない」「同じ内容でも、僧侶の言い方と男の言い方、女の言い方で印象が違う。ゲスな人の言い方は必ずくどい」みたいな、2つともやっぱりキャラクタに関わってる話だけど、古いもん。こういうのを取り上げると「なるほど。平安時代はねー」とか「そうそう、清少納言はさー」って、その時代論とか筆者論の方に持って行かれかねないし、だいたいみんな「古くせェー!」って逃げてっちゃうじゃん。おじさん、知ってるもん。
だからこの連載では、「キャラクタは私たちの日本語社会に深く関わっている」ということをみんなに思い当たってもらうために、たとえば谷崎の小説がどうとか、太宰の脚本がこうとか、「現代」だけどやや古い、権威ある有名どころの人たちの文章を中心に取り上げてんの。わかる? おじさんの趣味はあくまで「嵐」なんだけどね。くどいか。