前回触れたように、日本の相当数の女性は電話を受ける際、それまでとは別人のように声を高めて(あるいは低めて)しゃべることがある。たしかに、電話の相手はそれでいいかもしれない。だが、傍らの人間にしてみれば、それまでとは打って変わった電話用の声を聞かされ、キャラクタを取り繕う舞台裏を見せつけられるのは妙な気分である。
こういうはずかしいことをして平気でいられる場といえば、もちろん代表格はウチ(家)だろう。だって、家族って多かれ少なかれ運命共同体だもん。たとえ取り繕われたウソでも、ママは世間的には『上品な奥様』でいてくれた方が、パパもボクもワタシも体裁いいから、ママが電話口で声を高めてもみんな黙認だもんね。ソトヅラはとことん『紳士』だけどウチでは気むずかしい『坊ちゃん』だとか(第92回)、ソトではクールな八頭身だけどウチでは三頭身の『幼児』だとか、コンパでは上品な『お嬢様』だったのがウチに帰ったら靴も服も脱ぎ散らかして、それこそ飲み過ぎてゲロはいてるとか(第93回)、パパやボク、ワタシにしても、叩けばホコリが出たりするけど、ま、お互い目をつぶるところは目をつぶりましょう。
いや、ウチがキャラ取り繕いの舞台裏として認知されやすい原因は、いま述べた「運命共同体」に尽きるものではないだろう。「人物Aの父親は人物Bの夫でもある」「人物Cにとっての娘は人物Dにとって姉である」というように、ウチには、職場のようなソトにひけをとらない、多様な人間関係の重なり合いがある。しかもそれらの関係は、家族(A~D)が一堂に会することによって、しばしば同時に顕在化する。その「一堂」がウチである。誰に対しても一つのキャラクタで通そうとすることの限界が、ウチではあまりに明らかなのかもしれない。
前回取り上げたニック・キャンベル氏は、或る日本人女性の数年間にわたる膨大な日常会話データの調査もおこなっている。それによれば、話し手の声の調子は、たとえば娘相手には高い声でしゃべり、夫相手だと硬い声でしゃべるという具合に、相手が家族の中でも誰であるかによって大きく違っていたという。(Campbell, Nick, and Mokhtari, Parham. 2003. Voice quality: the 4th prosodic dimension, ICPhS2003, 2417-2420, //www.speech-data.jp/nick/feast/pubs/vqpd.pdf)。
そういえば川端康成の『舞姫』(1950-51)では、21歳独身の主人公・矢木品子が自分のことを「品子」「私」と2通りに呼んでいる。父親の元男(3回中3回)、母親の波子(55回中49回)、母親の助手で品子より3歳年上の、幼なじみの日立友子(7回中7回)に対しては基本的に「品子」である。他方、弟の高男(1回中1回)や、気乗りしない結婚を迫ってくる先輩の野津(5回中5回)、それから母の恋人の竹原(1回中1回)に対しては「私」と言っている。「私」の例が少なく、はっきりしたことはわからないが、この「品子」と「私」の違いは、「相手が目上か目下か」「相手が身内か否か」といったありきたりの観点では説明できそうにない。むしろ、『子供』キャラの自分を出して甘えられるなら「品子」、甘えられない、あるいは甘えたくなければ「私」と考える方がすっきりする。キャンベル氏のような科学的な手法とは比べものにもならないが、たとえば家の中で、親相手にしゃべる場合と弟相手にしゃべる場合で、品子のキャラクタが微妙に変わっているということは、ありそうな話ではないだろうか。