『クラウン独和』第4版を監修された故濱川祥枝先生からは、有形無形にたくさんのものを授かったが、その一つに、著名な旅行案内書〈ベーデカー〉の『オーストリア・ハンガリー』(1913年出版)がある。いまの世界地図から消えてしまった、かつてのハプスブルク帝国内の、様ざまな都市や交通について、その本で調べることができる。
たしか最初に開いたのは、「フューメ (Fiume)」のページであった。そこには「クロアチア語でRieka。古代ローマ時代はTarsatica、中世はSt.Veit am Flaum。ハンガリーで唯一の海港、人口5万、云々」と紹介されている。このページを開いたのは、ローベルト・ムージルの短篇『トンカ』のつぎの一節が気になっていたからである。
「アンコナとフューメのあいだに、あるいはおそらくミッデルケルケと見知らぬ町のあいだにも、灯台が立ち、そこから放たれる光が夜毎、扇をあおぐように海の上で明滅しています。扇の一閃、それから無となり、それからまた何かとなります。そしてフェンナの谷には、うすゆき草が咲いています。
これは地理学でしょうか、植物学でしょうか、航海術でしょうか。それは、幻です。たった一つだけ、一回だけ、永遠にそこにあり、それゆえ、いわば現実にないものです。あるいは、それは何でしょうか。」
主人公の青年は、母親に宛てたこの「ばかげた」手紙を投函しなかったが、1回しか起きなかったこと(マリアの処女懐胎に似たトンカの妊娠)に現実の価値をみとめてよいかどうかについて、深く煩悶し、省察していた。(いまの大学生はこんなことに悩んだりするのであろうか)。
ミッデルケルケというベルギーの海岸の町、それにインスブルック南方のフェンナの谷が出てくる理由はまだ判らない。しかし、アンコナとフューメに言及されていることは、最近、腑に落ちた。ムージルが未来の妻マルタとはじめて出会ったとき、マルタはあるイタリア人の妻であった。その結婚のためにカトリックに改宗していたマルタは、こんどは離婚のためにハンガリー人の養子とならなくてはならなかった。この離婚にまつわる裁判が、ブタペストとローマで開かれた。ムージルは、マルタのブタペストからローマへの旅にそっと寄り添った。その途次、フューメからアンコナまでの船旅で嵐に遭い、ほうほうの体で、アンコナに着いた。そのアンコナのホテルの宿帳に、ムージルはマルタを「妹」と詐称した。都市名には、いろんな記憶が付着している。
前回のエッセイでも述べたが、ハプスブルク帝国のときにドイツ語名を持った都市については、『クラウン独和』第4版の見開きの中欧の地図に、その名をカッコ内に示した。そのさい濱川先生の〈ベーデカー〉『オーストリア・ハンガリー』が大いに活躍したのはいうまでもない。
トーマス・マンの『ベニスに死す』で、旅心に誘われた主人公アッシェンバッハは、まずは列車でトリエステへ行き、そこから船でポーラ (Pola) へ、そしてアドリア海の島へ向かう。それから、その地になじめないのでベニスへと旅先を変えるのであるが、このポーラ(現在名プーラ (Pula))は、〈ベーデカー〉に、「1866年以来、オーストリア・ハンガリーの主要な軍港。人口36200人、大勢の駐屯軍。ローマ時代からすでにアドリア海の最重要の軍港の一つ、云々」とある。次回の改訂で書き入れたい都市名の一つである。