Duden やWahrig の正書法辞典に載る見出し語Ikebana, Manga, Sushi などは、ローマ字通りに読めてすぐ日本語からきた言葉とわかる。Harakiri, Kamikaze, Surimiなども、その意味内容はわれわれの持っているものと完全に合致はしないけれどもほぼ想像がつき――多少のずれはあるようで、例えばKamikaze は第二次世界大戦末期の日本軍特攻隊員の意味に限定され、Karaoke にはカラオケ大会を思わすような説明がしてある――ただアクセントの位置とか、名詞であればその文法上の性、複数形などに語学的な関心が残る。
Ginkgo, Ginko [ギんコ] は「イチョー」の別名の日本語銀杏から出た言葉である。『大辞林第三版』によれば「ぎんなん」は「ぎんあん」の連声と記されている。18世紀初め植物学者のケンペル(Engelbert Kämpfer)がこの樹木をヨーロッパへ紹介した際、Ginkjo(『漢辞海第二版』では「銀杏ギンキョウ」)と記したのを、Ginkgo と誤って伝えられた、との説がある。それはともかく、学名Ginkgo bilobaと聞けば、60代のゲーテが愛人の銀行家の妻マリアンネ・フォン・ヴィレマー(Marianne von Willemer)に捧げた『西東詩篇』(1819)の中の詩をすぐ連想する方もいらっしゃるであろう。
Dieses Baums Blatt, der von Osten 東洋から来てこの庭に育った
Meinem Garten anvertraut, いちょうの木の葉には
Gibt geheimen Sinn zu kosten, 心あるひとをよろこばす
Wie’s den Wissenden erbaut. ひそかな意味がかくれています
Ist es e i n lebendig Wissen, これはもともと一枚の葉が
Das sich in sich selbst getrennt? 二つに分かれたものでしょうか
Sind es zwei, die sich erlesen, それとも縁あって結ばれた
Daß man sie als e i n e s kennt? 二枚が一つに見えるのでしょうか
Solche Frage zu erwidern, もしその答えが知りたければ
Fand ich wohl den rechten Sinn; わたしにいい考えがあります
Fühlst du nicht an meinen Liedern, あなたはわたしの詩を読んで感じないでしょうか
Daß ich eins und doppelt bin? わたしが一人でありながらいつも二人だと
(高安国世 訳)
開いた扇の形で、真ん中に切れ目があるのに二つの部分が癒着している銀杏の葉を、相愛の二人の比喩に見立てた歌であるとの解説は余計かもしれない。
Satsuma [ザツーマ] が「いも」でなく「温州みかん」というのは、和歌山、愛媛、静岡の県民には納得のゆかないことかもしれない。しかし江戸時代ではみかんの栽培はまだ温暖な南九州の域を出ていなかった。1867年パリで開催された万国博覧会に参加した薩摩藩が江戸幕府とは別の展示を行い、その中にこのみかんがあったことから、ヨーロッパに「Satsuma」の名が広まったという。別の説では、明治初年来日したアメリカ人が、みかんの苗木を鹿児島から故郷へ送らせたことから、アメリカで Satsuma Mandarin の名が知られるようになった、という。
『クラウン独和辞典第4版』には、こうした日本語を語源とするドイツ語が、Bonze(僧侶;親分);Kakipflaume (柿の木);No-Spiel (能楽);Rikscha (人力車);Sojasauce, Sojasoße(醤油しょうゆ)など28語が収められている。