8月下旬のその日の朝、渋谷駅で山手線に乗り換えるべく私鉄の座席から立ち上がったとき、左足先が重く動きが鈍い感じがした。足を引きずるようにして三省堂の編修室に着くと、足の違和感も失せていつものように『クラ独 第4版』の後始末などの仕事をすませたが、帰途に立ち寄った大型店内で足の運びが悪く転倒してしまった。一晩眠れば治るだろうと高をくくったのが間違いで、翌日訪れた病院内ではもう歩くことができず、脳梗塞と診断され即刻入院、3ケ月の病院生活を送る仕儀となり、リハビリが今も続いている。
ふと「脳梗塞」に当るドイツ語が『クラ独』に載っているかどうか気になり、Gehirn‒ のところを調べてみると、Gehirnblutung(脳出血)、Gehirnerschütterung(脳震盪)、 Gehirnschlag(脳卒中)などはあるが、脳梗塞は見当たらない。「梗塞」はInfarktだが、この語の用例にはHerzinfarkt「心筋梗塞」しか挙がってない。一方Duden.Die deutsche Rechtschreibung.の24版(2006)にも、同じくDuden.DeutschesUniversalwörterbuch.の6版(2007)にもGehirninfarktは収録されていない。R.Klappenbach⁄W.Steinitzの『ドイツ現代語辞典』6巻本(1964-77)の見出しInfarktでは、器官名を前において複合語をつくる旨記載されていても、その例にGehirninfarkt, Hirninfarktは挙がってない。
ところで三省堂の『大辞林』によると、「脳梗塞」の項目には「…脳軟化症ともいう」とある。この別名「脳軟化症」Gehirnerweichungなら『クラ独』の見出しにちゃんと入っている。Gehirnerweichungも上記Dudenの二辞書には採録されていないが、Brockhaus-Wahrigの『ドイツ語辞典』6巻本(1980-84)には収められている。しかしこれまでの闘病生活で「脳軟化症」ということばは医師や看護師ら医療関係者からも聞いたことはないし、各種診断書や申請書類でも目にした覚えがない。例えばドイツ語が医学界で幅をきかせていた頃の『標準醫語辭典 増補版』(賀川哲夫編 南山堂 昭和15年)でもGehirnerweichung「脳軟化症」はあるがGehirninfarktはないし、収録語数14万4千の中型独和辞典である『三省堂独和新辞典 第3版』(1981)でも同様であることからすれば、どうも「脳軟化症」は「脳梗塞」の古い言い方ではないだろうかと臆測される。
もとより『クラ独』は医学用語の専門辞典ではない。しかし最近知人や著名人の中に脳梗塞に罹っている人の噂をよく耳にする。社会の高齢化はますます進む折から、次々と生じる老人医療や介護関係のことばの日常一般化は必須で、学習用一般独和辞典といえどもこれからは収録語の選択に際してそれらの用語にも配慮しないわけにはいかないであろう。