形容詞+動詞の構造を持った熟語の場合、形容詞が本来の意味で動詞を修飾しているのか熟語としてひとつの意味をもっているのかの判断には形態的な手掛かりは何もなく、もっぱら意味から判断するしかない。しかし、意味は不確定なものであり、主観的なものであるから、何をもって新しい意味として認定するかはきわめて難しい。そこで改訂新正書法では句として分けて書くのと1語に書くのとの両方を認め、明確に熟語的にひとつの意味だと認められる場合に1語に書くこととしている。ただ、これも個々の句・語によっていつも明確に判断がつくとは限らない。
例えば、frei は「自由な」という形容詞であるが、「自由」にもいろいろな自由があり、frei laufen「(犬などがリードなしで)自由に歩く」などは「物理的に拘束されない」という意味であるから2語に書くのであろう。eine Rede frei halten「(原稿を見ずに)演説する」などは「心理的に拘束されない」という意味でこれも2語に書くことに大体は納得がいく。しかし、 freisprechen「(人を)無罪放免にする」、などは1語に書くが、これもよく考えると「身体の自由がある」、「刑罰などの拘束がない」という意味でそれほど前2例とかけ離れているわけではないように思えてくる。また、den Oberkörper frei machen/freimachen「(医者の診察を受けるなどのため)上半身裸になる」、 den Weg frei machen/ freimachen「塞がっていた道路を通行可能にする」、sich von Vorurteilen frei machen/freimachen「偏見をすてる」などは1語で書いても2語で書いてもよいとされているが、これとても返って曖昧さを増すことにならないだろうか。ただ、freimachen「(手紙に)切手を貼る」などのfreiは単独では使われることはないから、接頭辞的になっており、1語に書くのもやむを得ない。このような問題は形容詞の多義性に原因があり、その例となる熟語はきわめて多数ある。