クラウン独和辞典 ―編集こぼれ話―

89 辞書の大きさ(1)―袖珍(しゅうちん)辞書―

筆者:
2010年4月26日

明治5年(1872)は日本で最初の独和辞書が生れた年である。先頭を切ったのは8月発刊の『孛和袖珍字書』(小田篠次郎 藤井三郎 櫻井勇作編 東京 學半社)で、9月にはそれに続いて『袖珎孛語譯囊』(山本松次郎編 長崎 出藍社)が出た。「孛」は孛漏生、孛魯土、孛露西などと宛字されたプロイセンまたはプロシアの略であるが、どちらも「袖珍」を題名に掲げた(珎=珍)。「袖珍」とは「着物の袖の中に入れて携行できるほど小型の」の意味で、今日ならさしずめ「ポケット版」といったところ。両書ともドイツ語の題名は「Taschenwörterbuch」である。學半社版は「Deutsch‒Japanesisches Taschenwörterbuch zum Gebrauch der deutsch lernenden japanesischen Jugend wie der, der japanesischen Schrift und Sprache Kundigen」(原文のママ、japanesischはjapanischの誤記か)、出藍社版は「DEUTSCH‒JAPANISCHES TASCHENWOERTERBUCH ZUM GEBRAUCH für SCHULER, KUNSTLER, REISENDE UND AUSWANDERER」(原文のママ)である。しかし、その大きさは、學半社のほうは本文紙型が16,4×11,3cm、出藍社のは19,5×12,5cmもあり、袖珍でも『クラウン独和 第4版』より大きく、袖と言っても筒袖ではなく、袂を含めた広義の袖の中でないと入らない。『全訳漢辞海 第二版』(三省堂2006)の「袖」の例文に「朱亥袖四十斤鉄鎚」(朱亥(人名)は40斤の鉄槌を袖の中に隠した)があり、1斤500gとしてもかなりの重量のものが袖には入るのである。東大医学部教授だった入澤達吉博士は「明治十年以後の東大醫學部回顧談」(『雲荘随筆』白揚社 昭和10)の中で、学半社の辞書は「厚い真四角な字引で丁度枕に宜いから、それで「枕字引」と申して居った」と述懐しているが、筆者自身が神田の古書店で見つけて成城大学図書館に納入させた『孛和袖珍字書』は、総頁1,373に、厚さが7mmもある堅牢な17,0×12,0cmの表紙が付いた、まさに「枕字引」の呼称に相応しいものである。

ともかく「袖珍」は「掌中」と並んでこの頃の携行可能な小型(?)辞典の題名に好んで用いられた言葉で、他にも『袖珍挿圖獨和辭書 Neuestes Taschenwörterbuch der deutsch‒ und japanischen Sprache, nach dem Standpunkt ihrer heutigen Ausbildung mit besonderer Rücksicht auf die Schwierigkeit in der Beugung der Wörter, und mit dem einigen Anhang』(ホフマン原著 小野 操纂譯 伊藤誠之堂 明治18)、『獨和袖珍字彙 Deutsch‒Japanisches Taschen Wörterbuch』(井上 勤纂譯 字書出版社 明治18)、『袖珍獨和字典 Neuestes Taschen‒Wörterbuch Deutsch und Japanisch』(山脇 玄校閲 田村化三郎纂譯 南江堂 明治26)などや『掌中獨和字彙 Deutsch und Japanisches Taschenwörterbuch』(吉原秀雄譯 六合館 明治19)などがあり、幕府の洋書調所が刊行した本邦最初の英和辞書とされているものも『英和對譯袖珍辭書 A Pocket Dictionary of the English and Japanese Language』(堀 達之助編 文久2)の名であって、縦160×横196mmの横長であった。欧米人の洋服のポケットは大きかったとみえる。

辞書――電子辞書ではなく、紙の辞書――は掌に載るくらいの大きさ・重さがよいと、筆者の大学同期生で『クラウン独和辞典 第4版』の監修者故濱川さんは常々言っていたし、それには筆者も大賛成であった。つまり右利きの人であれば、左の手の平に辞書を載せて右手でページを繰ることができるからである。『クラウン独和辞典 第4版』はちょうどその大きさになっている。

筆者プロフィール

『クラウン独和辞典第4版』編修主幹 信岡 資生 ( のぶおか・よりお)

成城大学名誉教授
専門は独和・和独辞典史
『クラウン独和辞典 第4版』編修主幹

編集部から

『クラウン独和辞典』が刊行されました。

日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。

(第4版刊行時に連載されたコラムです。現在は、第5版が発売されています。)