日本語の使用される地域はほとんど日本領土内に限られているし、日本語表記文字の独自性からみて、独和辞典も和独辞典も、日本国内で編集・印刷・出版され、流通するものと考えられがちである。しかし事実は、日本語に興味関心を寄せる人間は明治以前からドイツ語圏に存在していたので、彼の地にも以前から日本語とドイツ語の対照辞書があった。
1851年Wienで“Wörterbuch der japanischen Sprache von August Pfitzmaier.”のLieferung1が刊行された。August Pfitzmaierはオーストリア帝国科学アカデミー会員で東洋学者であった。当分冊は33.5×26.0cmの大型判で全80頁の中にI「い」に始まる日本語1040語を収めてドイツ語で解説している。残念ながら第2分冊以降は刊行されずに終ったようである。1851年といえば嘉永4年に当り、ペリー来航(嘉永6年)の2年前であり、当時の日本では、幕府の「洋書調所」がようやくドイツ語の単語集『官版獨逸單語篇』を出したのが1863年、最初の独和辞典とされる『孛和袖珍字書』(1872 明治5年)の出版される20年以上も以前であることを思えば、驚くほかはない。筆者がこの原書を日本の古書店の目録で見つけて入手した経緯については、すでに他のところで書いたことがあるのでここでは繰り返さない。
1873年5月刊行の『獨和字典』(DEUTSCH-JAPANISCHES WÖRTERBUCH MIT EINEM VERZEICHNISS DER UNREGELMÄSSIGEN ZEITWÖRTER. 松田爲常 瀬之口隆敬 村松經春編)は、その扉の右頁にSHANGHAI AMERIKANISCHE MISSIONS BUCHDRUCKEREI と書かれてあり、さらにその裏頁にGedruckt in der Amerikanisch
Presbyterianischen Missions Presse in Shanghai と記されてあるように、中国の上海のアメリカ長老派教会美華書院で印刷されたものである。おそらく当時の日本の欧文活字印刷技術などの関係上、上海で作って日本に運搬したと思われる。編者たちが薩摩学生と名乗っていることから薩摩辞書と称せられた。
筆者の手許に赤い表紙に金文字でLANGENSCHEIDTS TASCHENWÖRTERBÜCHER Japanisch と記された辞典がある。これはベルリンのランゲンシャイト社が、ポケット版外国語辞典シリーズの一つとして1911年に出版した獨和辭典と和獨辭典の合本版である。
最初の扉頁にはTaschenwörterbuch der japanischen Umgangssprache⁄ Mit Angabe der Aussprache nach dem phonetischen⁄ System der Methode Toussaint‒Langenscheidt⁄
Erster Teil Japanisch ‒ Deutsch⁄von Rennosuke Fujisawa⁄ BERLIN‒SCHÖNEBERG⁄
Langenscheidtsche Verlagsbuchhandlung と記され、その右頁には日本語の扉があって、新譯 和獨辭典 伯林 藤澤廉之助著 發行所ランゲンシヤイド*書店 獨逸伯林シェーネベルグ* 發賣所丸善株式会社東京・大阪・京都 と記されている。大きさは15.3×9.8cm 2段組みで、第一部は408頁に約3万語の見出し語を、第二部獨和辭典Zweiter Teil Deutsch‒Japanisch は622頁に約5万語の見出し語を収めている。この辞書はドイツ人を対象につくられたため、第一部のはじめに日本語の動詞と助動詞をドイツ語で解説した15頁に及ぶDie japanischenVerben und Hilfsverben が付いている。一・二部ともドイツ語はドイツ字体、日本語はローマ字(ラテン字体)が用いられている。著者の記す独文のVorwortによれば、この辞書でいうUmgangsspracheとは、文語体に対する口語体、文章語に対する話しことばの意味であり、第一部で必要かつ便宜的に採り入れたSchriftsprache(文章語)の見出しには*印を付しているのが ― 例えば*bujin Kriegerや*chien suru sich verspätenのように ― 大きな特色である。
*原文のママ