もうすぐ年越しだ。大晦日の晩に「蕎麦」(そば)を食べる習慣は、我が家でも続いている。細く長くと言いながら、満腹であっても美味しくお腹に入る日本蕎麦は、子供ながらに不思議な食べ物だった。蕎麦の食品としての謎については、蕎麦研究家の新島繁氏ほか、先人たちによって少なからぬ研究がなされている。
前回掲げた「そば」の写真【写真1】は、都内のJRの駅構内にある立ち食い蕎麦屋の看板だった。それは、蕎麦を売っているという情報を、間違えなく人々に伝えるものではあるが、何か味気ない感じがしなかっただろうか。私たちは、食べ物を食べるときに、味覚の他に、視覚や嗅覚などもフル活用しているそうだ。ほかにも実は、碗や箸の形や色、重さ、さらに部屋の様子や店のたたずまいなどを含めて、食品を賞味しているのであろう。そして、漢字に限らず文字もまた、店名や商品名、そして文字の字体や書体などによって雰囲気を変える力を持っている。ロゴにより、味わいも変わってしまうのだ。
「今年の漢字」は、「偽」だそうだ。この日本漢字能力検定協会(漢検)による発表は、自由な投票によって決まるもので、他の“流行語”と称するものに比べ、日本人の感覚を代弁するものといえそうだ。建築物だけでなく、有名ブランドの菓子も土産物も料亭の食事も、次々に「偽」装を露見させた。私たちは食品を、雰囲気を含めて食べていたのだ。
数ある店の中で、その店に入って食べたいと思わせる「そば」屋の看板・暖簾は、ほとんどの日本人にとっては、ゴシック体のものではなかろう。和食らしさを演出するには、昔ながらの続け字や変体仮名が相応しいようだ。「天ぷら」「うなぎ」「せんべい」「しるこ」など、和のテイストには古風な書体が利用されがちだ。これらに含まれる変体仮名は、過去へのキーともいえる。これを読めれば、つまりキーを持っていれば、先人の書いた文章、つまり考えたこと、感じたことなどに直接触れることさえもできるのだ。
「そば」も、蕎麦屋の暖簾や看板などでは、「楚」(ソ)と「者゛」(ば)に由来する変体仮名で「」と記されることが多いことは、多くの人がお気付きであろう。この一見古風な表記が、いったいいつから存在しているのか、研究グループの間で話題となり、私がその歴史を追う役目を担った。写真もない時代の暖簾、看板はほとんど失われてしまったが、戯作などの文献に数々の挿絵が記されており、そこに比較的忠実に文字まで写し取ったとみられる絵も残されている。浮世絵もそうした空間系の情報の資料となりうる。
歌川広重が描いた絵を模写したものに、蕎麦屋の看板に「生」と書かれた例を見かけた。しかし、実物を確かめたところ、そうは読めない点画であった。現在の店頭の「」であったと常識的に思い込み、そして「見なし」をしてしまったのであろう。
第1回の「覇」の略字は、地元の人たちでも、気付いていない人が少なくない。略字を見ても、自分が馴染んでいる字体とみなすためだ。それは、区別の必要のない差異を捨象しようとする人間の認知の高度な能力の表れでもある。しかし、こうした現象を「見れども見えず」となることは、現実から遊離し、真実からも乖離してしまう嫌いがある。
先日、熱海で、さびれかけた食堂に入った。そこには、「」がサンプルにまで記されていた【写真2】。これを「そば」とは読めない人も現れている。字形が崩れ、文字の順番も逆になったような暖簾も神田で見られたが【写真3】、どうやら老舗らしい、という雰囲気を醸し出すことには成功しているようだ。ただし、この「」は、実際は江戸時代には稀で、19世紀より古い使用例がまだ見あたらない。