漢字の現在

第228回 越後と「辶」(しんにょう)

筆者:
2012年10月12日

「越後」の「越」の語源は、都から山を「越し」た場所というその「こし」であるとされ、「古志」「高志」とも書かれた。越前、越中、越後の旧国名も、上越、中越、下越の地域名称も、京都から見た前後と上下であろう。東南アジアの「越南」(ベトナム)の「越」は、広東・広西を指す「粤」と同音で、何らかの語への当て字であったかもしれないが、こちらの越後の「越」は和語(固有語)で意味を表す訓読みを用いたもので、それがさらに音読みでも使われるようになったものだ。

米どころで、水も良い。日本酒の銘柄に、独特な筆遣いが見られる。「越」は当地の銘酒のラベルでは、「走(そう)にょう」の部分が「赱」のようになったものが見うけられる。崩し字であればそうなることがあるのだが、かっちりした筆字の書体でも現れるところに地域性を感じさせる。「辶(しんにょう)」のように略化され、それが受け継がれているのだ。

「辶」は、本来は「辵」(チャク)という形であり、よく使う字なので手書きでも略された結果だ。古い書き方の伝存という面もあるが、新潟では「越」をよく書くので、このような「走にょう」の略化現象がしばしば起きると解することもできる。お隣の越中、越前ではどうだろう。

「しんにょう」については、「丶(点)」の数が一般にはかなり気になるようだ。漢字には、人間から見て目立つ部分と目立たない部分とがあるのだが、この注目度の高さは、あたかも「さいたま市」で話題となって、いまだに硬直化した誤解が解けない、ひらがなの「さ」の左下の連続・非連続への極度の着目に匹敵するほどだ。

「しんにょう」は、構造と歴史の両面から、次のように相対化することが可能である。

単字 部首化 例字
足偏
走にょう
(しんにょう)


日本での「しんにょう」の語源は、漢字の「之」の形にたまたま似ているため、「之(シ)(ニョウ)」と名付けられたことによるとされる。「辵(ちゃく)にょう」が定着しなかったことに、「辵」の単独使用がいかに稀だったかが表れている。「しんにゅう」という近頃増えた語形は、「シ(ン)ネウ」の母音「i」が多用される中で「e」に対して順行同化を起こした結果ではなかろうか。「廴」(イン)を「えんにょう」というのが「延繞」であることから、「進」(しん)にょうと意識されている向きもあるだろう。

先ほどなぜ、無関係な3字、3部首を並べたのか、と疑う人もあるだろう。しかし、これらは実は条件が一緒だったといえるのである。字体と字義の関連性の背景として、下の「(疋-フ)」の部分は、同じ字源を共有していたことを見逃すことはできない。

  彳(行の左)の
下に足(象形)
大か夭の下に足 □の下に足
:ひざから足先
篆書 彳(行の左)の下に足(象形) 大か夭の下に足 □の下に足:ひざから足先
:
:
:
楷書 走にょう 足偏

この中で、「走」や「走にょう」にも、先述したとおり「赱」という手書きの崩し字に由来する「辶」に近い字形が隷書や草書などを経て楷書でも生まれてはいた。「足」にも「にょう」の形がないわけではなかった。しかし、それらは使用される字種も、部首としての使用頻度もさほど高くはなかったため、辞書には載ったとしても個別的で、俗字の地位にとどまったのである。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』 『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。