私と国語辞典との出会いについての話題は、私が大学に入ったところまで来ました。そろそろまとめに移りますが、その前に、私がいちばん影響を受けた辞書のことを書いておきます。いささかひいき目も含まれるかもしれないのは、ご勘弁ください。
当時(1987~88年ごろ)、大学の近くの小さな書店に『言語生活』(筑摩書房)という雑誌が置いてありました。ことばをテーマにした一般向けの雑誌で、最近のことば遣いについてとか、方言についてとかいった記事が載っています。まじめな雑誌なのに、肩のこらない読み物が多かったので、私はたまに立ち読みをしていました。
あるとき、気まぐれに1冊買い求めて、アパートで熟読していると、奇妙な連載に気がつきました。ちょうど辞書のように単語が羅列されていて、ただし、説明文の代わりに、その単語を含む新聞記事などが、逐一引用されているのです。こんな具合です。
〈総集 65年「朝日新聞」 52回分を前後編に再構成/今夜は前半 「太閤記」総集編 NHKテレビ〔下略〕〉(『言語生活』1987.12 p.84)
「総集(編)」の使用例なんか示してもらわなくても、使い方は分かります。なぜこんな無意味なページがあるのでしょうか。不審に思いつつ、その先を読んでいきました。「創出」「造出」「(ブームが)相乗する」「贈賞」……。中には見慣れないことばもあるものの、そう難解ではありません。知識として得るものは少なそうです。
ところが、まもなく、おそろしいことに気づきました。これらのことば(または用法)は、国語辞典にほとんど載っていないらしいのです。見出し語の下に「0」「1」などと掲載辞書数が記されています。つまり、この連載は、「これこれのことばや用法は広く使われているのに、辞書に漏れているぞ」と、実例をもって示すのが趣旨でした。
この「現代日本語用例大全集」を執筆していたのが、日本語学者(辞書学)の見坊豪紀(けんぼう・ひでとし)さんでした。見坊さんは、「今の国語辞典に載せるべきことば」を徹底追求し、新聞・雑誌・書籍・ラジオ・テレビなどから膨大な用例を採集していました。その生活はもう何十年も続いていました。みずから集めた用例に基づいて作った辞書が、『三省堂国語辞典』です。
「生きていることば」を載せる
連載に衝撃を受けた私は、『言語生活』を毎号読むようになり――と言いたいところですが、私はそれほど勉強熱心ではありませんでした。第一、この雑誌は、その何か月かあと、37年の歴史に幕を下ろし、休刊になってしまいました。
ただ、こういう体験はあとで効いてきます。折に触れて見坊さんの著書を読むようになり、『三省堂国語辞典』についても、くわしく知るようになりました。
じつは、私はもともと、『三省堂』にはそれほど関心を払っていませんでした。収録語数も、不足とまでは言いませんが、『新選国語辞典』(小学館)、『旺文社国語辞典』には負けます。私の関心事だった旧仮名遣いも、和語についてしか示されていません。
語釈はどうかというと、『新明解国語辞典』(三省堂)などのほうが、行数も多く、精密に書いてあります。『三省堂』は短く、ひらがなが多いように思われました。
けれども、『三省堂』には大きな特長があることを知りました。編者が、今の世の中に実際にあることばを採集して作った辞書だということです。つまり、『三省堂』を引けば、そこに載っていることばは、必ず現代の文献に用例があり、編者自身がその原文を確認済みであり、必要なら証拠を出せるということです。
このことは、必ずしもどの国語辞典にも言えることではありません。小型辞書であっても、読者の知らないことばをできるだけ多く載せようというサービス精神の結果、死語や古語を載せていることがあります。かえって、今の人が頻繁に調べようとすることばが漏れている、ということもあります。
その点、『三省堂』は、「実際に生きて使われていることば」を載せることに徹しています。そんな辞書を作るためには、ひたすら実例を集めるしかありません。現に、見坊さんは、生涯をかけて、145万例を超える現代語を採集したのです。
『三省堂』によって、国語辞典には、「収録語数」や「語釈」以外にも、注意すべき観点があることを教わりました。「収録語が、生きているか、死んでいるか」という観点です。
生きた国語辞典を作ることに賭ける見坊さん――先生に対し、私の尊敬は深まるばかりでした。でも、先生は1992年、私の誕生日と同じ日に亡くなりました。後年、私が『三省堂』の編集に加えてもらえたのは、なんとも不思議な巡り合わせでした。
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