私が国語辞典というものに触れはじめてから、選びどころ、楽しみどころを少しずつ理解した過程についてお話ししてきました。取り上げた「辞書を選ぶ観点」のうちで、一般にもとりわけ関心が高いのは、「収録語数」と「語釈」でしょう。この2つの評価のしかたについて、ここでいったんまとめておきます。
まず、収録語数について。これは、まったく無視はできませんが、多ければいいというわけでもありません。小型辞書には、大型辞書にないことばが少なからず載っています(第4回参照)。また、1冊の小説を読みながら、6万語の辞書、8万語の辞書のどちらを引いても、見つかることばの数は変わりませんでした(第5回参照)。語数は、辞書の規模を知る目安にはなりますが、それだけを評価の基準にすべきではありません。
語数だけに注目するのがよくないもう1つの理由として、国語辞典ごとに語数の計算方法が違うということがあります。
たとえば、「滑り出す」と「滑り出し」、「狭まる」と「狭める」などは、国語辞典によって、それぞれ別々の見出しにしたり、1つの見出しのもとにまとめて示したりしています。これらを何語と数えるかによって、全体では、じつに何千語という違いが生まれます。
結果として、見出しはA辞典のほうが多いが、言及している語はB辞典のほうが多い、ということもありえます。こういうことは、表示語数を見ただけでは分かりません。
語数の表示に関しては、『新選国語辞典』(小学館)や、『新明解国語辞典』(三省堂)の試みがすぐれています。語数の内訳を、品詞別・語種別に、あるいは、親見出し・小見出しなどに分け、細かい数字を記しています。他の辞書に対する問題提起になっています。
おそらく、ゆくゆくは、どの国語辞典も、このように収録語数の内訳を示すようになるでしょう。辞書によっては、語数の計算方法を見直した結果、表示語数が大きく変わることもあるかもしれません。それもまたオーケーだと思います。
ただ、語数の比較が今よりも簡単になった時、その数字が、あたかも国語辞典の「役立ち度」を決める偏差値のように使われては困ります。語数と、役に立つ度合いとは必ずしも関係がないことは、しつこく強調しておかなければなりません。
語釈の個性を比べるのはむずかしい
次に、語釈について。国語辞典によって語釈に工夫があり、個性が際だっているということは述べました(第6回・第7回・第8回参照)。ただ、辞書ごとの語釈の個性というものは、少しのことばを思いつきで比較してみるだけでは、なかなか分からないものです。
たとえば、「羅列」は、多くの国語辞典では、〈ずらりと並べること〉などと書いてあります。でも、「客の前に商品を羅列する」とは言わないので、この説明では不十分です。
この点で、『集英社国語辞典』(第二版)の語釈は出色です。
〈連なり並ぶこと。ずらっと並べること。「単なる資料の―にすぎない」▽「列挙」より軽蔑(けいべつ)の感じを伴って用いられる傾向がある〉
「羅列」には、連なり並ぶという意味合いもあり、また、語感があまりよくないことも分かります。『集英社』の説明は、きわめて行き届いています。
ところが、一方では、『集英社』が苦戦する場合もあります。
野球選手のプレーをほめて、「さすが、○○選手、健在ですね」と言ったところ、いやな顔をされた、という話があります。『集英社』で「健在」を引くと、〈健康で暮らしていること。元気なこと〉とあるだけで、選手が不機嫌になる理由が分かりません。
この点をうまく説明しているのは、『学研現代新国語辞典』(第四版)です。
〈1〔略〕2 もとのままで、十分に機能を果たしていること。「ベテラン―」〉
つまり、「最近、あの人はどうしているだろう」と心配していたら、昔と同じく元気だった、という状態が「健在」なのです。活躍中の選手に言うことばではありません。
こんなふうに、項目によって、その辞書の真価が発揮される場合と、別の辞書のほうがまさる場合とがあるため、語釈の個性を比べることは、簡単ではありません。
十分納得のいく比較をするためには、あらかじめ、どのことばを比べるかという「比較語リスト」を作っておくのが有効です。いくつかの基準で選び出した、比較のためのことば(比較語)を、目的の国語辞典で片っ端から引いてみるのです。
この比較語リストをどう作るか、などということは、かなり技術的な細かい話になります。そこで、次回からは、そうした細かいことを含めて、国語辞典を選ぶための、より実践的な話に移ることにします。