人名用漢字の新字旧字

第220回 「渾」は常用平易か(後編)

筆者:
2020年12月17日

前編から続く)

平成28年9月、東京都目黒区のとある夫婦に長男が生まれました。夫婦は長男に「渾」と名づけ、目黒区役所に出生届を提出しました。しかし、目黒区役所は「渾」ちゃんの出生届を、受理しませんでした。「渾」が、常用漢字にも人名用漢字にも、含まれていなかったからです。

これに対し、「渾」ちゃんの両親は、東京家庭裁判所に不服申立[平成28年(家)第6849号]をおこないました。「渾」は、戸籍法第50条でいうところの「常用平易」な文字なので、「渾」と名づけた出生届を受理するよう目黒区長に命令してほしい、と申し立てたのです。「渾」は12画の文字で、「輝」「揮」「運」と較べても「平易」な漢字です。「渾身」という熟語は、新聞の記事本文では使われていないものの、インタビュー記事や広告では頻繁に使用されていて、いわば「常用」されています。加えて「渾」は、平成12年の漢字出現頻度数調査での出現回数は191回(3047位)だったものの、平成19年の漢字出現頻度数調査では605回(2587位)と、明らかに出現頻度が上がっていました。これらをもとに両親は、「渾」が「常用平易」だと申し立てたのです。

平成29年1月13日、東京家庭裁判所は両親の主張を認め、「渾」ちゃんの出生届を受理するよう、目黒区長に命令しました。「渾」は、戸籍法第50条でいうところの「常用平易」な文字であり、これを人名用漢字に収録していない戸籍法施行規則の方がおかしい、と審判したのです。しかし目黒区長は、この審判を不服として、東京高等裁判所に即時抗告しました。「渾」の「常用平易」性をめぐる争いは、東京高等裁判所の抗告審[平成29年(ラ)第312号]へと移りました。

平成29年5月16日、東京高等裁判所は目黒区長の抗告を棄却、「渾」ちゃんの出生届を受理するよう、あらためて目黒区長に命令しました。両親の「全面勝訴」です。東京高等裁判所も、以下のように判示して、「渾」を「常用平易」な文字だと認めたのです。

「渾」は、平成16年改正において参考とされた漢字出現頻度数調査(2)において、出現順位3047位、出現回数191回であったが、平成19年において調査対象書籍数を二倍程度に広げて実施された同調査(3)においては、出現順位が2587位、出現回数は605回となり、その順位は「卯」(昭和26年人名用漢字に加わる。)、「惟」(昭和56年同)、「稜」(平成2年同)、「俱」(平成16年同)、「塡」(同)を上回ったことが認められる。平成16年改正では、出現頻度3012位以上のJIS第1水準漢字は無条件に人名用漢字とされたのであり、調査結果による出現頻度でみても、「渾」は現在人名用漢字として認められている字と遜色がないと認められる。

実は、この決定は、平成19年の漢字出現頻度数調査に関して、人名用漢字の「俱」(2263位・1028回)と、人名用漢字ではない「倶」(2589位・602回)を取り違えているようなのですが、とにもかくにも東京高等裁判所は「渾」を「常用平易」だと認めたのです。

平成29年9月25日、法務省は戸籍法施行規則を改正し、「渾」を人名用漢字に追加しました。それが現在も続いていて、「渾」を出生届に書いてOKなのです。ただし、平成19年の漢字出現頻度数調査で3012位以上だった漢字のうち、以下に示す355字は、現在も出生届に書くことができません。これらの漢字は、さて、今後どうなっていくのでしょう。

叩噓覗杢呆頷嚙洩呟躰睨軀魏舐搔爺牢腿吊揉怯趙壺祀囁歪蜀袁狐皺騙禿姜仇唸呻愕贅咳滲喘讐妾姑髭痺塵悶厭訝剃娼洒眩揆瞼諜渕咎躇躊垢姐叛鼠牌儂煽茫吠埃頸癌妓荼諫膣薇笥罠薔狽臀盧狸曼濤襞攣濠俯𥡴姦噺奢娥佇媚錏哢奼攘艘猥炒撥狗謳翳瑜舘踵甦餉灌軋咄瞑峙痙肚饅曰儘蛙餐腑蕩鏑嵌廓鉤蟻嗟﨑蜘蛛絨倶焉寇驒粕袂疼轢鴉乍訛嗚闊鸞聚賤髷檻倅輛瞠墟鰻牝嬌咥麴鄧罹彷譚祠脆啜棹幀戮贋襄爛捏荊饒鮭嗤掟僻礫刎揶揄飴鰹匕濱誅憚遽靄埒毯鞋胚癪啼荀梵饉囊郤獏屛抉蛭鉉狡奸淹耆艸崔舅顰疹扮逍仄疵鮨臍靡屹奕恍歿熾蔡懿竦蠣腋裔瀾桓脛冑葱咤悸泄憫于彅沁捌做勒蠅舳聯贔屁肛朧趨屓僑痒躾狄鮫橇鑿哭憮蘆粂孕篝跪磚肱扁榴穢椒縋茹悴瞞躱呵殷堡虔咬筵隋瘤嘔聳誦趾糠恫聟雍銚蛆蠢悍斃賽軫蝕袢辟炸褪癇攫錨襦攪燻藉銜矧囃缺拵晰淮蛋膵麾炬鄙縠苫徨暈絲

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

https://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。