出典
論語(ろんご)・里仁(りじん)
意味
朝、真理を聞くことができれば、その日の夕方に死んでも悔いはない。
原文
子曰、朝聞レ道、夕死可矣。
〔子(し)曰(いわ)く、朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり、と。〕
解説
一般には上記の[意味]のように理解されているが、異説はかなり多い。その一つとして、この一句は孔子(こうし)が死に瀕したときに述べた言葉という考え方がある。それによると、孔子は死ぬことを気にするよりも、現実の生きているうちに真理を学ぶことが重要であると弟子たちに説いたということである。同じ孔子の言葉の「未(いま)だ生を知らず、焉(いずく)んぞ死を知らんや」〔『論語』先進(せんしん)〕のような考え方で、むしろ生きていることに忠実であれということを強調していることになる。
しかし一般的には、死を間近に控えての孔子の悲愴(ひそう)な考えを述べたものという理解がなされている。伊藤仁斎(いとうじんさい)は、その著『論語古義(ろんごこぎ)』の中で、「ある人が、『朝に真理を聞いて夕方死ぬというのでは、少しせわしなさすぎるのではないか。』と尋ねたのに対し、『そうではない。人間として道を聞かなければ、生きていても益がない。だから孔子が、朝、道を聞いて、夕方死んでもよいとされたのは、どうしても真理を聞かずにはおれないというつきつめた気持ちをお示しになったもので、決してせわしないなどということはない。』と答えた。」と解釈している。
清(しん)の劉宝楠(りゅうほうなん)の『論語正義(ろんごせいぎ)』には「朝、道理を聞いて夕方死んでしまい、学問が途中で挫折(ざせつ)したとしても、道理を聞くことなく死んでしまうよりはいい。」としている、この一句が、孔子が死を前にして弟子を励ました言葉か、それとも飽くことのない学問追求の態度を表す言葉かはっきりしないが、いずれにせよ道を求めることを強く主張しているものであることには変わりがない。これを孔子の積極的な姿勢として受け止めるか、死を前にした悲愴な感慨と受け止めるかは、読者の主観によるほかはあるまい。
出典略解
孔子
【人名】前五五二~前四七九。春秋(しゅんじゅう)時代魯(ろ)の国の人。名は丘(きゅう)、字(あざな)は仲尼(ちゅうじ)。儒家(じゅか)の祖。十五歳で学問の道に志し、特定の師を持たずに勉学にはげんだ。魯に仕えて大司冦(たいしこう)となり、国政に参与し、魯の国はよく治まった。のち、用いられなくなり、十四年の間諸国をめぐり歩いた。六十九歳のときに魯に帰り、弟子の教育と著述に専念した。弟子の数三千人、六芸(りくげい)に通ずもの七十二人、詩書を刪定(さんてい)し、礼楽を定め、『春秋』を修めて先王の道を伝えた。「仁(じん)」を中心思想におき、仁の徳による政治思想を説く。孔子の言行を記したものが『論語』である。
論語
【書名】孔子と、その弟子たちの言行録。孔子の弟子たちが師の言行などを記録したもので、原形は前五世紀の後半には存在したといわれる。仁や孝、君子のあり方などを二十編にまとめ、儒教の経典(けいてん)中もっとも重視され、「四書(ししょ)」の一つとなる。